2014年7月28日月曜日

アンダー・ザ・スキン(2013)

しまった放置していた。

映画評論家の町山さんがネタバレありの有料ポッドキャスト(https://tomomachi.stores.jp/#!/)を始めて、それで知った「アンダー・ザ・スキン」はスカーレット・ヨハンソン主演だが、日本で公開のメドが立っていない。
先日、奇跡的に夢の中でこの作品を見ることができたので、前半までの詳細と感想を書いていく。


なにぶん情報が無い。TSP21という、聞いたことも無いニュースサイトからの引用。

ストーリー
エイリアンに身体を乗っ取られた美人のローラは車を走らせて獲物となる男を探し、妖艶な魅力で誘惑して同乗させ、捕食する。

以上である。
この「スピーシーズ 種の起源」(1995)丸出しのストーリー、本国では高評価らしい。
主演の、世界一のセクシー体型とも言われるスカヨハが全裸になったことにより、注目&売り上げが高まったようだ。なぜ日本公開が決まらないのか、それは明らか撮影・演出手法、つまりストーリーの語り口にある。話の系統は似ていても、ちゃんとした娯楽大作として制作しているスピーシーズとは間逆の、見ている人に説明しない、非常にわかりにくい低予算映画である。
 

スピーシーズ 種の起源は、B級の中でもかなりA級よりな顔で映画史に残っているエッチなSFアクションである。美人の身体に入り込んでいる宇宙人が男を逆ナンして、中出ししてもらって種を繁殖させるという、おもしろさとエロさをこれほどまでシンプルに融合させるか、という設定である。彼女の暴走を阻止しようとするのは、即席で組まされた便利屋・超能力者・学者たちのおっさんおばさん4人組。このストーリーにわざわざ、中年の恋愛話を入れようとするから、B級化に歯止めが止まらない。なのに設定の良さからか、無残にもシリーズ化までされてるんである。
 
そんな鉄板設定をシンプルに、スター1人を使ってまとめた本作。
まずは、そのスターと監督である。

スカーレット・ヨハンソン
10年ほど彼氏が居ないようなほとんどの人間を見下すようなオシャレなようなブスでもないような30代女子、を多数生み出すきっかけとなった戦犯映画「ゴーストワールド」(2001)のビジュアル担当として、高校時代に世に出たスカヨハ。84年生まれ。そのままの勢いでロスト・イン・トランスレーション(2003)でサブカル女コースに乗り、ゴーストワールドの主役だったソーラ・バーチに打って変わって前に出たが、抜擢された大作アイランド(2005)がユアン・マクレガーを巻き込みながら映画会社ドリームワークスを破綻させる程事故った為、はい結局はサブカル、となり、これで頭打ちかと思われた。


だが26歳にして、突然アイアンマン2(2010)にて、秘書と思いきやめっちゃ武闘派スパイである、ブラック・ウィドウという当たり役をゲット。今までこういう役が多かった昔のアンジェリーナ・ジョリーとは違う角度の、女ヒーローとして正式にブレイク。
包容力が高いのだろうか、その後アベンジャーズ(2012)のメンバーになったばかりか、キャプテン・アメリカ2(2014)にも同じ役で出演。LUCY(2014)でもアクション女優として、レオン(1994)のリュック・ベッソンに最大のヒットをもたらした。

アクションを主軸にして低予算映画にも出演。ドン・ジョン(2013)とかいう、ジョセフ・ゴードン=レヴィットへの、皆の幻想をぶっこわしてくれた糞にもヒロインとして出演。
そして、公開中のher/世界でひとつの彼女(2013)にも、携帯の音声・サマンサ役でアフレコ出演し、ローマ映画祭にて、声だけで最優秀女優賞獲得。この役は、始めにキャスティングされて現場にも来ていて役名にも採用されていた女優、サマンサ・モートンで録音していたものの、全てお蔵入りさせて、わざわざスカヨハで録り直すというタブーを犯してまで起用されている。そんな小悪魔agehaである。
バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985)も似たように、途中までマーティはマイケル・J・フォックスではなく別の役者だったが、明るい人がいいからと、金を払って降りてもらったらしい。元のherにも払ったのだろうか。

また、今作でハダカ初披露とのことだが、2011年、元夫に送った自撮り写メがハッキング流出され、鏡越し背後フルショット全裸写メと、普通にやらしい顔した上半身裸写メ、二枚が既に無料で披露されてしまっていた。そして、えっ普通にそんなことする娘なんだ、という意味でも衝撃を与えた。



ジョナサン・グレイザー
監督。スカヨハとはオファー前から友達だったようだ。誰もが少しは見たことがある、ジャミロクワイのヴァーチァル・インサニティという曲の、PV監督である。日本では、別の映像畑出身と言うとカットが多かったり、色彩が派手だったりする印象だが、そんな中島蜷川連中とは間逆の、暗いことが美しいじゃんスタイルの監督である。ただ、これを正義と言い切れるようになったのは、エイリアン3(1992)でそれを押し通した結果、駄々すべったけどやりぬいたデビッド・フィンチャーの苦しみがあってこそである。


映画監督としては二作目。一作目、記憶の棘(2004)は、ニコール・キッドマン主演のショタ風味な大人ミステリー。夫が死んで10年後、夫の生まれ変わりと言い張る男子(10)が現れるが、本当に生まれ変わりなのか、この児童を愛していいのかを1時間40分かけて暗い画面でじっくり描写。最後の方の、見ている人を混乱させる、思わせぶりの連続をサクサク繋いで終わる描き方はすごい。結果赤字。
 
ストーリーの前半
なぜか今作も一作目と同じく1時間40分(100分)であるので、中間の50分までを書いていく。この映画、めちゃくそな割に、きちんとハリウッド三幕構成に従い、ミッドポイント(100分の場合50分時点)で、衝撃的な展開、ストーリーを反転させる事件、を入れているのである。三幕構成とは、日本で言う起承転結を、4幕でなく3幕(区切り方は1:2:1)にしたもので、その区切り方に従って脚本を書けば、一番見やすいとされているもの。アウトサイダーな顔しながら丁寧にも、これに基づいて構成してるんである。タイタニックでのミッドポイントは激突シーンである。
三幕構成については、いちお自分はシド・フィールドの本も読んだが、ウィキペディアで読んでも構わないのである。
 

オープニングはイメージショット。宇宙と片目の超アップから、映画は始まる。
 
田舎の夜道を走るバイク。道の端に止まったライダーの男は、なぜか川から女の子を担いで出てきて、小型トラックの荷台に入れる。トラック内は真っ白の空間になっており、その中でスカヨハは女の服を一式パクる。
 
早朝、ぼろいビルから出てトラックに乗るスカヨハ。ビルの上にはよー見るとUFOが飛んでいる。バイクを走らせるライダーとトラックを運転するスカヨハ。ライダーとスカヨハは、会話はしないが、タッグを組んでいるような感じ。

でかいショッピングモールで化粧品や服を買い足すスカヨハ。(モールの客は、カメラをちょくちょく見ているため、エキストラではない。ゲリラ撮影しているようである。)
 
街を巡回しながら、いろんな一人歩きしている男を観察するスカヨハ。車を止めて、若い男に車内から声をかける。「高速はどう行けばえん?」「えっとまっすぐ行って、信号を右折して、その後左折して、説明しづらい」「急いでるの?」「いいや」「仕事?」「人と会う」「そう、ありがとう」
また別の男に声かけるスカヨハ。「郵便局はどう行けば?」「郵便局?」「そう。どっからきたの?」「俺?アルバニア」「家族と一緒?」「そうだ。郵便局は、、、」
別の男。「すみません。迷ったんだけど、高速はどう行くの?」「この道を、、、」「あなた歩き?」「そうだ」「歩いてどこ行くの?」「家だけど」「家族の元へ帰るの?」「一人暮らしだけど」「どっから来たの?」「役場」「働いてるの?」「いや、自営業だけど」「送ってあげようか?」乗り込む男。「自営何してるの?」と、会話していくも、時間経過した車内で、男は居なくなっている。(説明シーンなのに、説明し終わる前に次のシーンへ行って、わかりづらくしている。)
治安悪そうな道で別の男。「この道をまっすぐ行って」「このタトゥー何?」「名前だよ」「名前は何?」「アンディだけど」画面外から甲高い女の声「アンディ!」逃げるように車を走らせるスカヨハ。
別の男が既に乗り込んでいる。「ここは治安悪いから声かけちゃダメだよ」「あーた彼女居ないの?」「居ないよ」「男前なのに?私はキレイ?」「もちろん」「よかった」
一軒家のドアを開けるスカヨハ。ラッキーラッキーと笑顔で入っていく男。声優のアイコの誕生である。
 
室内に入ると、またトラックの中のように、今度は全て真っ黒の空間になる。(この、一昔前みたいな、いかにもセットでやってます的な撮り方も、音楽・照明・撮影技術がめっちゃスタイリッシュなおかげで、ダサく感じないのである。)
歩きながら一枚ずつ脱いでいくスカヨハ。そのケツを眺めながら脱いでいく男。(ジャケットの下にサッカーのユニフォームを着ているので、ようやく、ここイギリスなんだ、とわかる。)
最後の一枚も脱ぐ男。普通にぼっきしたちんこモザなしが映る。その刹那、足元がタバコのタールのようになっていて、どんどん足元から床へはまっていく男。ギャーギャー驚く様子もなく、そのままタールに飲み込まれる。スカヨハは何事もなかったように引き返し、服を着ながらタールの上を歩く。(この、変なリアクションしない感じが、よりわかりづらくしている。)
 
まーた夜道を巡回しているスカヨハ。時間経過して昼の海へ。(ちなみに海に変わるところで20分。第一幕の終盤のこのシーンで第一ターニングポイントが訪れるという、定石の時間配分をまた使ってるんである。)
 
海には、遠くに一組の家族・旦那、嫁、赤ちゃん。そして一人で海から上がってくるウェットスーツ中年。
「俺のタオルを見張っててくれてたのか?」「いや、サーフィンどこですりゃいーか聞きたくて」「俺サーファーじゃねーし。テント張って本読んだり泳いだりしとるんよ」「どこから来たの?」「チェコ」「何でスコットランドに?」「逃げたくて。ここは何もないから」って話してると女の悲鳴。離れた場所で家族の嫁が溺れている。助けようと更におぼれかけている夫も居る。ウェットスーツは二人を助けようとダッシュ。タオルを捨てて海に入り、夫だけ何とか浜に上げるも、夫はウェットの善意無視でまた海へ。体力使いすぎて動けないウェット。静かな修羅場に不穏な音楽と共にゆっくり近づくスカヨハ。手ごろな石を持って、ウェットの頭をボロックソに叩く。ずっと引き画。泣いてる赤ちゃん完全無視で、ウェットを車に運ぶスカヨハ。ウェットを助手席に置いて走っている。全く下心が無い男も、こうして毒牙にかかった。
 
その夜、テントを片付けているライダー。テントの中に読みさしの本があることから、テント一式はウェットのものである。(ヒントが本しかないので、めちゃめちゃわかりづらい。本は別にアップにする訳でも無い。)
 
テントを背負って、先ほどの修羅場に行くライダー。夫婦は死んだようであり、赤ちゃんだけが暗い浜で泣いている。赤子完全無視でウェットのタオルを拾って証拠隠滅だけして帰るライダー。スカヨハとライダーコンビ、言い訳できないほどサイコパスである。
 
夜道を巡回スカヨハ。男を見つけ、今回はめずらしくトラックを降りる。しかしそこはクラブの前であった。ビッチ集団に腕を捕まれ、仲間扱いされて一緒に店内へ。店内観察するスカヨハ。(なんならここ、ものすごいスピーシーズっぽい)
 
クラブでは逆ナンするまでもなくナンパされる。「お姉さん、ちょっと待ってよ。さっきも声かけようとしたけど居なくなった。とても美人だから奢りたいんだ」「私もあなたを見てたわ」「嘘ばーよん。踊ろうぜ」「一人なの?」「一人じゃ」
 
踊ってたらシーン変わり、そのまま一軒家の真っ黒室内へ。そしてナンパ男は踊りながらタールへ。

タール内ショット。タールの中には先客が。栄養分吸い取られているのか、先客は身体シワシワである。そして効果音と共に、伊藤潤二のマンガみたいな描写で、一気に身体がペーパー状に。

タールは、人の皮膚以外の全ての内容物を吸い取る機能を持っているようであり、そのままベルトコンベアで挽き肉や骨のようなものがスタイリッシュに運ばれていく。
ここでようやく、このライダー・スカヨハコンビは人間の肉を採取、加工している宇宙人なんだとわかる。
 
日中巡回スカヨハ。
渋滞にはまっていると、バラをバラ売りしている路上花屋が窓を叩く。「あの人があなたにと」と、ナイロンに包まれた花を渡される。その花には花屋の血がついている。血を見て異常に引くスカヨハ。特にそれ以上何も無く、箸休め的シーンである。
 
ラジオでは、「海で家族が行方不明」とニュースが流れている。街を歩く着飾った女たちを観察するスカヨハ。
 
また男が助手席に。「キレイな目だね。唇もいいねー。なんというか、すばらしいねー」「そう?」
一軒家の前、帰ろうかどうしようかとビビりながらも、部屋に入る男。ルーティンである。

倉庫に立っているスカヨハ。ライダーがスカヨハをものすごい間近で観察している。片目をじっくり観察し、納得して去る。
 
倉庫を出ると日中街角、いきなりこけるスカヨハ。街中の男は「大丈夫かい」と何人かで起き上がらせる。スコットランドの商店街の人、人、人。(明らかゲリラ。つーか多分倒れたとこもゲリラ。)
 
夜道、車を止めると、ガラス越しに男が何か言っている。聞こえないので窓を開けようとすると、別の男がフロントガラスへ。輩たちが4,5人集まってくる。計画的に悪行しようとしていたのだ。車をユラユラさせる。車は開けられず、輩を振り切って逃げるスカヨハ。ある意味一番怖いシーンである。停車して別の獲物を待つ。
 
49分。前半ラスト。通った男に声をかける。「すみません。道に迷っちゃって」
話しかけた男は、顔面が奇形の病気だった。
 
後半、奇形やその他の新しい男たちと出会っちまったことをきっかけに、スカヨハの気持ちが、、、
という、世の男は不思議で、ヤリモクだけでなくいろいろいる。狂気に満ちたレープ犯も居るし、セックスはおまけとしか考えない紳士も、セックスは眼中に無いピュアな童貞も居る。俺はそのタイプである。宇宙人から見た地球旅行記というか地球人観察記、サントリーBOSSの、宇宙人ジョーンズみたいな話を、あほほどスタイリッシュに、無駄を省いてキレイに大胆に撮ったような映画である。

なんというか、芸能人と友達になって主演に置けば、こんな訳わからん低予算のものでも普通にA級作品として作れるという素晴らしさに気付けた。原作もあり、翻訳されている。表紙を見る限りでは、セクシーでない大人しい感じの女子が、中身は猟奇的な宇宙人だったという設定のようだ。


海外ライトノベルというジャンルで、読もうとしたが、アマゾン・楽天・ジュンク堂にも無い状況だった。

そしてこのブログを、何日もダラダラ書いては中断していたところ、あっけなく先日、日本公開が決まった。邦題は「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」。
なぜ「スピーシーズ 種の起源」に寄せてきたのだろう。この惑星の住人は不思議である。

2014年5月9日金曜日

YouTube「紳竜の研究」NSC講義

島田紳助が本当に嫌いで、世の中の人もほとんどがそうだと思っていたが、地元の友人は普通に、さんまさんより好きだったという。
こちらとしては、全くの他人なのに、この人がテレビから消え去ったときは嫌な上司が辞めた時と同じ爽快感を得ることができた。
これからはもうテレビの向こう側に現れないので、自由に色々なチャンネルを、好きなタイミングでまわすことができるのだ、最後に答えるときにわざわざヘキサゴン!と叫ばなくてもいいのだと、以前よりテレビを好きになれた。

あのしゃくれを忘れかけていた頃、2chまとめの「哲学ニュース」に、ダウンタウンと同級生の放送作家・高須光聖の発言について議論している記事があり、その中でこういうレスがあった。
以上のレスの「紳竜の研究」というビデオ、これが非常に気になり、ちょっと買おうかとも思ったが、安い状態のAmazon価格で五千円、自分は紳助にそんなに払えないし、与沢翼をモデルにしたマンガ・ウシジマくんを読んだばかりで、講義に金を払うのに抵抗があったので、Youtubeで探した。
すると色々なアップ元から色々な題名で、断片的に5,6分ほどの映像がいくつか上がっており、それらをおそらくこういう順番だろうと、試行錯誤しながら繋げると、一時間ほどの映像になった。そしてこれを通して見ると、今まで大嫌いだった靴べらが、とてもすばらしい人物に見えてきてしまった。Youtubeにもあるし、紳助だし、標準語で書き起こそうと思うのだった。
2007年(大阪29期)に行われた講義で、以降NSCから有名人はまだ出てない。

1.5×5

今日は緊張している。NSCで講義をするのは25年ぶりだから。有名な話だが、当時1期生の前で自分と明石家さんまとオール巨人が、それぞれ講義をしたが、その後たまたま3人が会った時に「どうやった?」と聞いたら「1組だけやな」と口を揃えた。それがどういうヤツだったかという事を話さぬとも、全員、それがダウンタウンであることが認識できた。世の中、どんな仕事も才能である。

才能は0~5まで、6段階あると思う。努力も0~5まである。才能5の人間が5の努力をすれば、5×5=25で最高点の結果が出る。みんな、5の努力をしたつもりでも、それは間違った努力なのではないか。

阪神タイガースの掛布とよく話すので、野球の話になるが、プロ野球選手は日に五百回素振りをしている。それ自体は努力とは言えない。全員がしていることだからである。
では「ピッチャーがどういう風に投げた何球目の球を打ち返しているか」ということを想像しているだろうか。想像せずにバットを振っているだけでは、腕が太くなるだけである。ただの筋トレに過ぎない。
努力の段階とは、意識の持ち方である。

2.漫才師の筋肉

若手を見て脅威を感じることはあるかと聞かれることがあるが、さんまも同じで、全く無い。アホかと、何を練習しているのだと思っている。ずっと無駄な筋トレをしている人たちにしか見えない。
日本代表の体操選手と会った事があるが、すごい身体をしている。しかし彼らは、他のスポーツは下手である。体操だけの筋肉がついていて、それ以外の筋肉がついてないから。我々お笑いタレントも、そうでないといけない。
ボクサーは3時間以上練習をするとオーバーワークになってしまう。漫才師もボクサーと同じく、たくさん練習してはいけない。自分なりにネタを繰り返して上手くなったと、気持ちよくなっているかもしれないが、それはただしゃべるセリフに慣れただけである。もっと基礎的な、根本的なところの練習を積まなければならない。

基礎的な笑いの技術とは、音感・リズム感である。歌のオンチと喋るオンチがあり、自分は歌の音程が外れても、どこが外れているのかさえわからない。歌同様、喋りはキーである。喋りの下手な人間は喋りながら音を探してしまうが、才能のある人間は、歌がうまい人間と同じく、初めから音がブレない。
コンビのリズム感の練習は、稽古場でしてはならない。稽古場に合うネタもあるが、リズム感を付けるには歩きながら練習せねばならない。二人で、小さい声でいいので、歩きながらネタのような話をしてみる。ゆっくり歩くとゆっくりしゃべり、早足になると早口になる。歩いているリズムがしゃべるリズムになる。
そうして探りながら、二人の基本ベースのテンポを見つける。4ビートか8ビートか、自分たちのリズムが体に入るまでやり続ける。それが染み付いて初めて次の練習にいける。

3.才能が無いなら辞める

99%の人間が結果に満足できない。才能が無いのに10年も続けてはならない。
ただ、努力を5までせずに辞めたら意味が無い。いい加減な人間は2,3までしか努力できない。努力を5にする方法を覚えた人間は、他の世界でも成功できる。
その自分の理論を立証するために、自分の弟子で、才能は1しか無いが、5の努力ができる野呂祐介に店を持たせた。そして成功した。成功したら二店舗目を出せば儲かるが、そうはせず、新しい企画の別の店を考え、開店している。金でなく証明のためにやっている事なので、出資はするがバックはもらってない。

また、その理論と、「自分はどの分野でも成功できる人間である」ということを自分の中で証明させるために、店を出している。
自分で漫才の教科書を製作して「島田紳助」また「紳助・竜介」を売ったのと、店を売るのは、全く同じノウハウである。
可能なら、もう一度新しい顔と名前で、芸能界で成功することができるか試したい。自分がたまたま売れた訳では無いという事を、自分自身に向けて証明したい。それができないので、店という形にしている。オープンするまでが自分の作品であり、オープン後は一切口を出さない。
この講義を聞いている50人の生徒と一人一人話すことができるならば、ネタの話はしない。どうやって世に出て行くかという作戦を話し合う。それに従えば、2,3組世に出られると思う。

4.相方

自分はコンビを組むのに時間がかかった。仲の良い友達と組むものではない。
何をしたら売れるのか、どうしたら世に出られるのかを考え、「この形の漫才をやれば絶対に売れる」という発想に従い、失礼だが、それに必要な相方を探した。始め先輩と組んだが、合わず、渡米すると嘘をついて逃げた。次に、なんばグランド花月の進行の司会者を相方にしたが、自分の演出の細かさに耐えられず、3週間後に逃げられた。さんまからの「根性あるヤツがおる」という紹介で、松本竜介に出会った。
竜介とは、初舞台が近づくまで漫才の稽古は一切せずに、自作の漫才の教科書で理論の授業をした。「これからは何が売れるのか、自分たちはどう売れるのか。できなくてもいいから、自分が何をしようとしているのかを理解してくれ」と。

まずは自分でも恥ずかしくなるようなベタな漫才から始め、お客さんが見えるようになってきて、次の段階へ行った。
次は会社を説得し、コンビを組んですぐにNHK上方漫才コンテストに出場した。決勝8組に残ったが、自分の中では残って当然だった。先輩も居たが「こんなカス相手に負けるわけ無い」と思っていた。しかし結果は3位であり、頭が真っ白になった。表彰式で花束を投げつけ怒鳴り、そこから30年、大阪NHKから仕事が無い。

5.一番後ろにいる人を笑わせろ

その後、まだ若手で社内での立場は弱いのに、仕事をすっぽかすようになった。会社からすれば、キャラ同様ヤンチャで不良だからすっぽかしていると思っていただろうが、それは違い、勝てない現場だから行かなかったのである。中途半端な出来の漫才しか無く、現場に行けば負けが判明する。引き分けるには現場に行かないべきだと判断した。
また、午前開演の舞台で、客席に居るおばあちゃん相手に演じても、自分たちの漫才をわかる訳がないので無駄だと思い、わざと聞こえない音量で演じたり、すぐに終わらせたりしていた。10日間の出番21回のうち、真剣にやっていたのは3回ほどだ。
いけないことだが、なぜそんな事をしていたかと言うと、ターゲットを20~35歳の男のみに絞っていたからである。自分に一番近い存在を狙うのが、一番簡単だからである。
今は細分化されているが、当時は子供から老人まで笑わせねばならないというのが漫才の定義で、そう教育されていた。そんな中ひとりで、漫才は今後、音楽同様細分化されると読んでいた。

売れ出すと、劇場にキャーキャーと女の子が来るが、これがダメにしていく。彼女たちは人気を作ってくれるのですごく必要であるが、邪魔だ。彼女たちを笑わせるのは楽なので、彼女たちを笑わそうとしてしまう。そうすれば全て終わってしまう。TVでも、目の前のお客さんではなくカメラの奥のコタツで見ているお兄ちゃんを笑わそうとしていた。目の前の彼女たちが笑えば笑うほど、一番後ろにいる人たちからは「お前ら、文化祭で身内だけで集まってやっとけ」と思われるのである。

6.自分ができる笑い、X

自分たちが誰を笑わせるのか、どういう漫才を作るのかが一番初めに必要である。
笑いのパターン、才能、おもしろいと感じるものは、人それぞれ違う。分析をすれば色々な笑いがあることがわかる。

自分がおもしろいと思うものの中でも「自分にはできないもの」と「自分にもできるもの」がある。「自分にはできないもの」は諦める。だからと言って、「自分にもできるもの」の方は、既にその人が居るので、その漫才師には勝てない。なので、自分の才能に近いパターンを、一組の漫才師だけでなく、いくつか探す。自分が普段友達を笑わせているときと同じパターンで笑いをとっている漫才師を、何組か見つける。

自分はB&Bの島田洋七さんをコピーした。周りは気付いてなかったが、本人からは「パクるな」と言われた。しかし「ネタはパクってない。システムをパクっただけです」と返した。
大学を辞めて洋七さんの師匠を調べ、島田一門に入門し、メカニズムを探るために、いつも一緒について歩いた。なぜパクったかというと、怒られるが、絶対に勝てると思ったから。なぜなら二十歳ぐらいの時に、洋七さんの欠点を見抜いた。
B&Bのネタはブームから30年経っても笑いをとっているが、洋七さん本人がおもしろいとは思えない。それが欠点である。本人自身がおもしろい人間と思われないと、キツイ。
絶えずネタがおもしろいと問題ないが、歌手と同じで、いい曲、いいネタに出会えるのは何年かに1回である。
洋七さんは類を見ない才能と、漫才の知識と観察眼があって、今でも尊敬している。漫才を習うならこの人だ。

7.XとY

その「自分にできること」の勉強と、もう一つ勉強せねばならぬことがある。
30年前に漫才ブームがあった。そこから現在までの漫才は、全て記録媒体として残っている。もっと前のものも残っている。それらを全て聞き、どう変わってきたか、何が変わってないかを徹底的に調べるのだ。

Xというのは自分の戦力、自分にどんな笑いができるか。Yは世の中の笑いの流れ。笑いは常に、時代によって変化している。それらを研究して、XとYを理解し、そこで初めて「俺は何をしよう、どうしたら売れるのか、どんな笑いを作ろう」と悩み始めるべきだ。悩んでいる人は、XもYもわからず悩んでいる人ばかりである。
よく「新しい笑いをやりたい、どうすればいいか」と相談を受ける。バカかと思っている。
自分が相談相手に換わって、一年考えれば、答えは出ずとも公式だけは作れる。だが、自分は相談相手ではないので、Xがわからない。
Yは、今は漫才師ではないので、半年ほど時間をくれたら考え出せると思う。笑いが今日までどう変わってきたか、これから5年後、10年後、どう変化していくか。しかしXは、どうしても本人にしかわからない。この公式は自分自身にしか作れない。

「おもしろいことを考えよう、新しいことをやろう」という考えから始めて売れるのは、絶対に無理である。たまたま売れることがあるが、絶対につぶれる。なぜかと言うと、式が無い答え、テストでたまたま書いた数字に丸がついただけの答えなので、そこに何の根拠もないからである。そんなヤツは、Yの動きについていけないので一発屋になる。
XとYが車とすると、一発屋XはたまたまYにガツンと出会い頭で当たった大事故である。大事故はインパクトがある。でも2,3年するとYの動きとはズレる。修正が効かない。
さんまだって、頭の中にこれが入っている。長く売れている人は、世の中に自分を合わせているのだ。だから出会い頭に激突するような大事故にはならないが、接触事故ばかりを起こして売れ続けている。

この公式は絶対的なもの。この生徒の中で、何人が自分のXをわかり、何人がYを正しく分析できるか、全員は無理だと思う。何人かが、XとYを見つけることができるだろう。売れた人間は当たり前のように、これが心の中に入っている。Yを見つけても仲間には言うな。聞かれても「わからない」と嘘をつけ。地元に帰れば友達は居る。ここには友達を作りに来た訳ではない、勝ちに来たのだ。

7.漫才の教科書

漫才に教科書は無いので、18歳でこの世界に入ったとき、まずは教科書を作ろうと思った。教科書が無いのに勉強はできない。
自分がやった方法は、自分がおもしろいと思った漫才、自分の感覚に一番近い漫才を、カセットテープに録音した。そしてものすごく時間はかかるが、それらを全て、タイムコード含め紙に書いた。何度テープを聞いても、紙に書かなければ意味が無い。その紙に書かれた漫才をバラバラにして、分析していく。オチに入ろうとすると急に文字数が少なくなっていたり、紙に書くと違いがよくわかる。

その中で気付いた、名人と人気ある若手との差は、1分間の中の間(ツッコミのセリフとボケのセリフのあいだの無音)の数の違いである。
名人は60秒間に20箇所ほども間がある。10年、20年漫才をしているのだから、間の取り方は上手いに決まっている。我々も1分毎に20回も間を成功させなければならないのか。否、間の数など、見ている人は気にしていない。おもしろいか、おもしろくないかしか見ていないのだ。上手いと思われる必要は無い。下手でいいのである。
B&B、ツービート、紳助・竜介に共通した部分、それは間の数が少ないという事である。自分たちは60秒間に8箇所しか間が無い。そうすれば重要事項である「間の取り方」で失敗する率が少なくなるから、間を減らしたのだ。そしてボケが圧倒的に喋り続けるので、リズムが作りやすい。技術的には下手だが、お客さんはわからない。

また、海原千里・万里さん(千里は上沼恵美子)は高校生時代からスターだったが、なぜ高校生のくせにこんなにもおもしろいのか、やはり客席の一番前でテープを忍ばせ録音し、分析した。
結果、数あるネタの8割はフォークボールを投げており、2割はベタなストレートの漫才だった。彼女たちは、フォークボールをキレよく見せるため、飽きさせないため、ストレートの2割でお客さんの目をくらませていたのだと気付いた。

8.心で記憶する人間

自分は本も読まず、映画も見ない。あんなものは役に立たない。それで得た知識は自己満足でしかない。クイズ番組では役に立つかもしれないが、それだけの得である。
しゃべり手は一般人と覚える場所が違う。脳では無く心で記憶するのだ。今日自分がしゃべったことも強く納得したと思うので、心に残ったと思う。心で記憶したことは、残念ながら一生忘れない。

高校で覚えた授業内容は忘れているが、高校生活の何気ない会話は、なぜか鮮明に覚えている。それは、授業は脳で記憶し、覚えている友人との会話は心で記憶しているからである。
テスト中は「記憶したものはどこだったかな」と、脳の中の引き出しを時間をかけて探し出すが、心の記憶の引き出しは、探す必要が無い。当時と同じ感情になったときに、勝手に引き出しが開くのだ。

「行列のできる法律相談所」でも、何も考えずにスタジオに行っている。
台本を見て「高校時代の腹のたったエピソード」とあったとしても、楽屋では思い出せないので、考えない。スタジオで他の出演者のエピソードを聞くと、年代は違うが、自分も同じ高校時代に感情がタイムスリップできる。すると引き出しが3~5個、バンバンと開きだすのだ。その中から、その時に一番合うエピソードを一つチョイスしてしゃべっている。

「心で記憶できるか」も才能であり、感情の起伏が激しくないとできない。
例えば自分のバーのステージでシンガーのRYOEIが歌うと、お客さんもたまに泣くが、タレントは9割が泣いてしまう。フットボールアワー後藤や小池栄子など、聴いた瞬間に、本人もわからぬまま涙が流れた。
彼らは、物事を心で記憶できる才能がある人たちなのだ。なので、今後RYOEIが有名になってテレビに出たとすれば、彼らは、初めて歌を聴いたときの感想を感情でしゃべることが出来るだろう。すると、脳で覚えてしゃべっている人たちよりも伝わるのだ。
絶えず心で記憶する人間にならねばならない。

9.M-1で勝つネタ

今はタレントになろうとは考えず、M-1の事だけを考えろ。M-1は、ネタ番組や舞台でやる芸とは違う。
例えば自分は、もうテレビ芸しか持ってないので、舞台で漫談をすることはできない。
テレビ芸は、お茶の間の心理を見てしゃべっており、会場のお客さんはどうでもいい。M-1の場合も、審査員だけを意識してネタを作らねばならない。審査員を突破して決勝に行きさえすれば、売れるのだ。
M-1の予選の持ち時間である2分間ぐらい、審査員をごまかせないとダメだ。

短くはっきりしたものを作らねばならない。はっきりしたキャラ付け、パターン、見た目。
最近の若手は衣装を考えておらず、区別できないので、また同じようなヤツが出てきたとマイナスから始まる。自分は年収8万円のテレビに出ていないときでさえ、1年で5着スーツを作った。誰のために作ったかというと、吉本の社員のためである。社員に「またスーツ作ったのか」と言ってもらうためだけの衣装だったのだ。
外へ発信するのは売れてからであり、初めは内側へ向けて発信せねばならない。オリンピック代表になる前の国内予選と同じである。

2分のネタは歌で言うと、サビ前から始めなければならない。ストーリーのあるネタではダメだ。キレイにできたとしても、おもしろくすることはできない。
自分が用いたネタ作りの方法は、まずはお題を考え、そのお題に対して色々なボケを大小15個ほど考える。お笑いと関係ない友人に手伝ってもらってもいい。2分の場合、その15個からチョイスするのは4個でいい。ベスト4を無理矢理流れにすればいいのだ。
1つ目のボケと4つ目のボケが、同じ笑いの量であってはならない。雪だるまのように、笑いはローリングしていかないとならないのだ。
3分間のボクシングの試合で「ラスト30!」と声をかけるのは、ラスト30秒に打った方がジャッジの印象に残るからである。重要なのは審査員の最後の気分である。
4つ目の最後のボケで、わずかな、小さな言葉の面白さを見せること。センスの話になってしまい、今言えと言われても難しいが、ダウンタウン松本が得意とするような、小さな言葉のセンスを最後に見せて、最後に一瞬雪だるまが加速したような形になれば、人はもっと見たいと思うものだ。「さっきのわざとか?」と審査員の印象に残れ。

始めの1分はキャラ付けとして使う。天才じゃないのだから、知らない兄ちゃんが、いきなり出てきていきなり笑いを取ることなどありえない。
おもしろいのはラスト30秒でいい。これが決勝の4分になると、今までの2分+2分で、2分30秒間ずっとおもしろくなる。

これはM-1の審査員に見せる為の漫才である。審査員は何組も見ているので飽きる。1日100組も見ていて、80組目で出てきた漫才師をどう思うかという目線で考えろ。飽きたときに違うタイプの漫才師が出ると、おもしろいと錯覚するものだ。
自分たちより前に登場した漫才師は、ネタフリとして認識し「前のやつらの漫才をどう利用し、いかに2分間で審査員にインパクトを与えられるか」を考えるのだ。

10.10億円

この世界は、売れるとめちゃめちゃ儲かる。金が儲かって、大きい家に住めて、ありえない女を抱ける。賞品はこの3つである。普通の人間がこれらをもらえるのは、この世界しかない。それが頑張れるエネルギーである。
自分も君たち生徒と同じだった。パチンコに行って二千円負けて「なぜパチンコに行ってしまったのか」で半日悩んだ。
夢が叶っていくと、残念ながら夢を失っていく。一対一で飲み屋でこれからの夢を語り合うとすれば、自分は君たちに負ける。それを思うと泣いてしまう(突然泣く)。
10億で売ってくれるなら換わって貰いたい。つまり君たちは10億円分の若さと夢を持っているのだ。だがこのまま50歳になったら何もなくなる。「漫才」は一回目の挑戦である。これでダメだったら全てが終わる訳ではない。でも一回頑張ってみよう。それでダメだったら、違う方法で頑張ろう。まだまだ大丈夫だ。

以上である。
初めに聞いたときはすごいと思ったが、書くときに改めて何度か聞くと、新しい笑いを否定する、物を作ることに対するオリジナリティが全く無いことに、ドン引いた。これ以前から出てきていたジャルジャルとか無視か!女の観客を舐めすぎてるし、途中泣くし、やっぱりこいつ気持ち悪いわ!となった。

そして講義した2007年のM-1の結果を確認したところ、おいらのスーパー父ちゃんオススメの小手先芸とは真逆の、単純な力量だけで無名のサンドウィッチマンが優勝した年だった。

人生を勝ちまくった島田さんは2011年、大好きな元ボクサーの893及びその人に紹介してもらった893との大交友により、泣きながら引退した。
やはり天才的な詐欺師である。心の引き出しがどうこう言ってるときはサイエントロジーを思い出した。思い出すまで危うく洗脳されるところだった。
生活する中でこれから嫌なことがあっても、「お前も紳助が好きだったタイプの人間だろ」と思うことによって差別化をはかり、乗りきっていこうと思う。

そもそもこの人を尊敬している人が、松っちゃん以外、変な人しか見えないことも、ほとんどの芸能人たち(この人の言う、心で記憶できる才能のある人たち)にその薄っぺらさをズェッテーに見抜かれていたからではないか。それって素敵なのではないか。

2014年4月15日火曜日

ザ・マスター(2012) (町山智浩の「映画Q&A」から)

日本で公開されて一年、映画評論家の町山さんがようやくこの作品を解説した。
3月に武蔵野公会堂で町山智浩の「映画Q&A」というイベントがあり、行けなかったが、ラジオデイズ(http://www.radiodays.jp/item_set/show/732)で、この時の録音を500円で売り始めたので、買った。充分有料であることに意義のある音声だった。元々はコーエン兄弟の「バーン・アフター・リーディング」、タルコフスキーの「ストーカー」と、「ウディ・アレンの重罪と軽罪」を解説する予定だったが、今作の解説を希望する声が多く、そして町山さん自身もこの作品のまともな解説が日本に無いということで、ウディ・アレンが「ザ・マスター」に変わったのだった。 
俺は元々芸人・ボーナストラック木村の映画な対談(http://kimuraeiga.seesaa.net/article/356075656.html)のポッドキャストで解説を聞いていたが、やはり俺が聞いてもそれは違うんじゃねぇか?という箇所があり、この映画をどう解釈すれば良いのか、主人公のフレディ同様、(ネットの)海をさまよっていたのだった。

町山さんのポッドキャストでは冒頭、配信後、一字一句書き写すのでなければ内容をブログなどに書いてかまわないと言っており、ここにその内容を、俺の方で調べた追加情報も入れて書き起こそうと思うのだった。

俺は少なくとも2010年以降で最も好きな映画だが、「メイン出演者がアカデミー演技賞に全てノミネートされている中、作品賞にはノミネートされていないのは、話にパンチが無いから」という意見も見たことがある。そのレビュー通り、ストーリーがおもしろい訳ではない。ストーリーに惹かれた訳ではないのに、なぜこんなにもこの映画に取り憑かれるのか、自分でも疑問で、性格さえ知らないブスに一方的に恋した気分で今まできている。だが、このポッドキャストを聞いてかなりすっきりした。ある意味種明かしされたようで残念ではあるが、彼女のことをもっと知ることができて、一生
この新興宗教とセックスと酒と暴力と戦争の、口くっさい魂映画とは付き合っていくんだろうなと、確信させられた。
ただ、この映画にハマってから、以前よりも酒を飲むようになったし、若干鬱気味になったし、シャツはインするようになったし、悪い事ずくめかもしれない。
前知識として、今作にまつわる人たち、宗教。

PTA…今作の監督であるポール・トーマス・アンダーソン。現在43歳。みんな大好きマグノリアの時点ではまだ20代だった。寡作だが世界三大映画祭のカンヌ・ベルリン・ヴェネツィア全てで監督賞受賞経験がある稀代の天才。今作の公式サイトの、他の有名監督たちからのコメントからも、その業界内評価がいかに高いかわかる(http://themastermovie.jp/review.html)。 
PTAのフィルモグラフィ

1.ハードエイト(1996)
 ギャンブルの街にやってきたダサい男が初老のギャンブラーと仲良くなり、攻略法を教えてもらう。ギャンブル街の小金持ちアウトサイダー達の日常を描く、ちょっとしたカイジ。初老ギャンブラーは実は殺し屋。そんなにおもしろくない。

2.ブギーナイツ(1997)
 何にもできないが、チンコだけはでかい男がAV男優になり人気者に。一般社会からははぐれきった仲良したちの、成功と没落の成長物語。専門学校の同級生二人がまさに同じ状況で、xvideosの中で見るたび笑えない。全く同じストーリーのマンガを高校のときに見つけて、むかつきすぎて泣きそうになった。タイタニック前のディカプリオが主役に配役されていたが、親友のマーク・ウォールバーグを推したことで後に全員が成功したのは有名。アカデミー助演男優・助演女優・脚本賞ノミネート。

3.マグノリア(1999)
 ナンパ塾講師や警官やクイズ王たちの、一晩の物語。主人公が10人居るので判別しがたいが、トム・クルーズを主人公とした場合、社会に顔向けできない仕事で成功している男が、仲の悪い富豪の父の死に付き添い、和解する話。DVD特典ではみんなが知りたい、ナンパ塾で販売している実演ビデオも入っている。わざわざトムクルが部屋のセットで、女と茶番の再現映像を演じてるのに全カット。ベルリン金熊賞受賞。アカデミー助演男優(トムクル)、脚色、歌曲賞ノミネート。尚、歌曲賞のエイミー・マンとPTAは親友で、映画内にエイミー・マンのPVのようなシーンが多数ある。サントラも買ったが、エイミー・マンの曲はBGMでなく、逆に曲からシナリオが発想されていると解説あり。

4.パンチドランク・ラブ(2002)
 トイレ用品の小さな会社を経営する主人公は姉三人の中で育ったため、女性恐怖症で癇癪もちの怒りをコントロールできない性格だったが、姉の紹介でメンヘラと運命の出会いをする。そんな中、プリンを買って、応募者全員プレゼントの商品である「マイル」を貯めることを思いつく。ドル箱俳優アダム・サンドラー主演。群像劇だった前作までとは打って変わったが、変態性は隠し切れず。ダウンタウン松っちゃんに「監督はプリンのマイルを貯めた男の話を新聞で読んで映画化したらしいが、そもそもその記事をおもしろいと思う時点で、そんなにおもしろくない人。マグノリアのおもしろさは偶然」とまっとうに批判される。カンヌ監督賞受賞。

5.ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(2007)
 1898年、石油の採掘が盛んな時代、とにかく石油を見つけたいエネルギッシュな主人公は、小さい子供を連れて頑張っているお父さんを演出しながら、油田が出ることがわかっている土地を買い成功。土地を売った家族の息子は福音派の伝道師として活動し、二人は20年を経て再会することになる。中盤主人公の弟と名乗る男も登場して共に働くが、実は弟ではなく裏切られる。アプトン・シンクレアの「石油!」が原作。今までの作風から一転して落ち着いた、しかし今まで以上に狂った、深く力強い作風に。アカデミー主演男優、撮影賞受賞、作品賞他8部門ノミネート。ベルリン監督賞受賞。

その後、6.ザ・マスター(2012・ヴェネチア監督賞受賞)、Inherent Vice(2014・製作中)。

ホアキン・フェニックス…主人公のフレディ・クエルを演じる。元々ジェレミー・レナーが配役されていたが、降板後、常連フィリップ・シーモア・ホフマンの「怖いから」という理由によりホアキンに。
兄は23歳でドラッグで死んだ伝説的俳優のリバー・フェニックス。スタンドバイミー(1986)一本で貧乏家庭を救った兄は、俺の中ではインディジョーンズ/最後の聖戦(1989)のインディの子供時代で有名。両親はセックスカルト「神の子供たち」(現・ファミリーインターナショナル、日本支部は渋谷)の宣教師で兄弟も元は二世。
ホアキン、俺の中では若年期は誘う女(1995)の高校生役で有名、その後グラディエーター(2000)で助演賞多数受賞、アカデミー助演賞もノミネート(ザ・マスターで三度目のノミネート)。2008年にラッパーになる夢を諦めきれないと、完全にヒップホップをバカにした引退宣言、奇行を繰り返し、2010年に実はケイシー・アフレック(ベン・アフレックの弟・フェニックス家の妹と結婚した為ホアキンにとっても義弟)の監督作「容疑者、ホアキン・フェニックス」(2010)で世間をだました様子を撮る為のドッキリでした、と種明かし。仕事をせずに制作費で貯金もなくなり、ベン・スティラー他友人を騙しまくって、心配したファンからも見放され、ラップでディカプリオをディスり、業界から干されるかと思われたが今作で復帰。明らか薬やってると思うが誰も逮捕しない。
フィリップ・シーモア・ホフマン…教祖(マスター)、ランカスター・ドッドを演じる。今年2月にヘロインで亡くなった、アルビノかと思うような色白デブ。2013年5月にちょっと今薬をやっていて依存しそうなんでリハビリしますと、施設に入所したことを告白、入院から10日後に現場に復帰していたが、結局またやっていた。アート作・大衆作を垣根なしにこなす名優で、PTAの盟友。ビッグ・リボウスキ(1998)の執事やハピネス(1998)のようなコメディ系の役柄が似合う個性派だが、アカデミー主演・作品賞も受賞したカポーティ(2005)の翌年にミッション・インポッシブル3(2006)に出演するなど汎用性もあり、非常に演技力が高い。リプリー(1999)やパンチドランク・ラブのようなチンピラ役も似合っていた。モデルとなった教祖、L・ロン・ハバードに容姿も似ていることから、PTAからすれば、どんだけヤク中だろうがこの人以外の配役は考えられなかっただろう。遺作は悲しいことにハンガーゲーム2(2013)。
サイエントロジー…今作の主人公・フレディが入信するザ・コーズのモデルになっている宗教団体。トム・クルーズやジョン・トラボルタが入信していることでも有名なアメリカの創価。日本では、アメリカの番組で「日本のファーストレディーが信者の可能性がある」とディスられたことでも一時有名になった(鳩山夫人が「前世でトムクルと親友だった」「寝てたら魂が金星に持ってかれた」「パクパクパク」と過去に言っていた為)。
トムクルは幼い頃から失読症だったが、サイエントロジーの活動で病気を克服できたことも一因となり心酔。「サイエントロジーは私。私自身なんだよ」とまで発言。同胞作りの為、無宗教を通すユダヤ人、スカーレット・ヨハンソンに狙いを定め、制作の権利も持つミッション・~3でキャスティングして皆で勧誘。それが原因で降板したことをチクられた。
その後、恋人だった元信者ナザニン・ボニアディに「サイエントロジーは、勧誘ビデオ出演のオーディションとだまして集まった女優全員に、個別でトムクルをどう思うか聞き、トムクルの彼女探しオーディションをしている」とばらされる。更にばらした罰としてトイレ掃除と教義本の路上販売をさせられ、もちろんそれもばらされる。
わざわざカトリックからサイエントロジーに改宗した元嫁、ケイティ・ホームズからも、娘の教育に悪影響だからと、サイエントロジーが離婚原因にまで発展し、唯一の実子と引き裂かれてようやく少し冷めたようだが、まだまだ信じている。また、信者ということが原因でヒトラー暗殺作戦、ワルキューレ(2008)のドイツでの撮影が制約されたりしたようである。
続いてトラボルタは教祖の本、バトル・フィールド・アース(2000・
ニコ動あり)を製作・主演しゴールデンラズベリー賞を総なめするなど貢献。後に2000年代最低作品賞にも選ばれる。自分にもパワーが身に付いていると思っており、夜会でゴッドファーザー、マーロン・ブロンドが軽く足が痛いと言っただけで、「癒させて欲しい」と手をかざして祈ったのを、更にジョシュ・ブローリンに見られて「ドン引きした」とばらされる。
元々はSF系ラノベ作家L・ロン・ハバードの書いたダイアネティックスという本がベストセラーになり、そのカウンセリングを試しで実践していた人たちが著者のもとに集まり、出版から4年後の1954年にサイエントロジー教会が建てられ、宗教になったようである。
ダイアネティックスは、俺も半分ぐらい読んであきらめたが、簡単に言うと自己啓発本である。
人の心には、あらゆることを完璧にこなせる「分析心」と、過去の嫌な経験を思い起こさせて変な行動をさせてしまう「反応心」、簡単に言うとトラウマがあるが、クリアーという段階の人間になれば反応心が消え、目が悪い人は目が良くなり、耳が悪い人は耳が聞こえ始め、事故にも遭わずに風邪もひかないというのである。なぜならそれらは、全て反応心が原因だからというのである。精神薬やメガネなど必要ない。なーに、メガネ屋も安心してください。徐々によくなるので、色々な段階のメガネを買い替えないといけなくなる。結果的にメガネ屋は繁盛しますと、メガネ市場に対する気遣いまでみせているのである。
また、反応心が多すぎて常識外れの行動を起こす人間は「逸脱」と呼ばれる。ダイアネティックスの公式サイトの、有名人たちからのコメントからも、その業界内評価がいかに高いかわかる(http://www.dntokyo.com/)。 
そんな平和なバカだったが、何冊か本を出していくうち、カルト丸出しの教義になっていった。その内容はサウスパークでもアニメ化されているが(http://himado.in/10401)、町山さんのブログを引用すると以下のような教義である。 

↓(http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060529) 
7500万年前、宇宙はジーヌーという名の邪悪な帝王に支配されていた。増えすぎた人口を解決するため、ジーヌーは人々を眠らせ、凍らせ、DC-8そっくりの旅客機に乗せて地球に運んできた。
そして富士山をはじめとする火山に放り込んで殺した(正確にはそこにわざわざ水爆を落とした)。
すると殺された人々の魂(セイタンと呼ぶ)が浮遊したが、ジーヌーはそれを魂キャッチャーで捕まえて、映画館に監禁して、映画を見せた。その映画でセイタンは、キリスト教や仏教やあらゆるサイエントロジー以外の宗教の考えを刷り込まれた。その洗脳されたセイタンは、地球に生まれた人類に入り込んだ。
だから人間は今も混乱し、悩み続けているのだ。

ストーリー全力ネタバレ。

第二次世界大戦が終了。水兵のフレディは、軍人たちが浜で休んでいる中、一人ココナッツを使いオリジナルの酒を製作中。砂でできた女に、皆の前で手マンやピストン運動をして笑いをとったり、下ネタを言ったり野外でしこったりして戯れている。
ラジオで連合国軍が勝ったという放送もそ知らぬ顔で、魚雷に穴を開けて燃料として入っているアルコールを飲んでいる、アル中である。

軍人たちが入院している病院。精神科医により、左右対称の模様の印象を直感で答える『ロールシャッハテスト』を受けるが、フレディはそれを見ても性器名しか言わずに医者を呆れさせる。カウンセリングも「俺を治せるもんか」と、適当に答える。「両親と故郷でテーブルを囲んで、酒を飲みながら笑っている夢を見た」とも。

退院して社会に出るフレディ。まずは写真家としてデパート内の写真館で家族写真や個人写真を撮る仕事に就く。コート販売員の女を口説いて、店の裏で現像液を使った特製の酒を飲ませてBまでいくも、夜のデートでは寝てしまい抱けない。翌日客に暴力を振るって職場から逃げる。
次に黒人と共にキャベツ畑で働き始める。しかし「父に似ている」と慕いかけていたおっさんを、特製の酒で急性アル中にさせてしまう。黒人女たちから「毒盛ったろ」と責められ、走って逃げる。
そのまま逃げていると海辺できらびやかな、ディズニーランドの船みたいな遊覧船を見つける。明らか楽しそうだからというだけで船に飛び乗るフレディ。出港してしまう。

翌朝ベッドで目覚めるフレディ。「心配しないで、ここは海よ」と声がけされ、艦長の前に連れ出される。彼は自称作家で医者で哲学者で物理学者、ランカスター・ドッド。どうやら昨夜フレディは酔って暴れて、しかも船で働かせてくれと言ったらしい。
「君は逸脱しているが、君が隠し持っていた酒が気に入った。また作ってくれるなら密航の罪は見逃そう。着替えて、娘の結婚式に出席しろ」とドッド。こうして出会っちまった二人。
ドッドは結婚式中も式後も、話術とカリスマ性で笑い取りまくり、尊敬されまくり。
翌日、教祖の奥さんから「夫は一晩中執筆してたわ。あなたに刺激を受けたのね(インスパイアされたのね)」と聞かされる。この団体は、コーズメソッドを広める、ザ・コーズ。ドッドは代表の教祖だった。そして団体は、陸の上では恐れる人々や欲深い人々から攻撃を受けている、とも。時は終戦から5年後の1950年で、トラウマを持った国民たちは宗教に頼っていた。
船ではたくさんの信者が催眠療法を受けたり、ヘッドホンで教義を聞いたりしている。フレディは適当な女信者に「ヤリたいか?」と紙を渡すが失敗。

相変わらず危険物を使ってオリジナルカクテルを作り、教祖に飲ませるフレディ。教祖はフレディにプロセシングするかと持ちかける。プロセシングとは顔を近づけ一問一答するカウンセリング。まばたきさせずに即答させる。教祖は、簡単な質問から意味不明な質問、確信に迫った質問と次々フレディに浴びせかけ、トラウマを引き出す。
フレディは過去に叔母とセックスしていて、日本兵とキャベツ畑のおっさんを殺したことを苦にしていて、母は精神病院へ、父はアル中で死んで、自分は地元に未成年の婚約者を放置していた。
婚約者との回想。フレディは海軍として上海行きの船に乗ることを決心。ノルウェーに留学するか迷っていた恋人に「ノルウェーに行け、ノルウェーから帰ってきたら一緒になろう」と約束する。
プロセシングは終了。教祖は「影の支配者のメンバーか?」「共産党と繋がりは?」「宇宙的侵略者との関連は?」もちろん全てにノーと答えるフレディ。リラックスしてタバコのクールを吸う二人。

船はニューヨークに到着。こっちでも催眠療法版プロセシングで信者を幸せにする教祖。女信者は鎧を着た男として自分の前世を経験していた。そこに見物客から横槍が入る。
「それは催眠術と同じではないんですか?コーズメソッドで白血病も治したと書いてますよね?」「ある種の白血病だ。過去の人生をさかのぼり、病気の発生時点で治す。数千年、数兆年前に」「地球の歴史は数十億年です。正しい科学なら意見は多様です。でも一人の意思で動くならカルトと同じだ」(小保方は出ない)「その通り。我々は力を合わせて欠陥を正し、戦争や貧困を排除。核の脅威をなくす。過去への旅を恐れているのか?」「私が恐れているのは白血病患者が…」と、全力論破される。見物客に果物を投げるフレディ。
その後部屋、「情けないわ。なぜ卑屈になる必要が?」とキレる奥さん。「身を守るには攻撃しかない」と。偶然にもフレディは見物客を攻撃。深夜部屋に訪ねてボコボコにして、疑いの芽を摘んだのだった。
翌日「君は悪党だ、獣だ」と、罵りながらもうれしそうな教祖。「君との最初の出会いが気になっている。君はどうだ?」と。二人は前世から一緒だったのか。

布教の旅はフィラデルフィアへ。信者が皆の前で体験談を話している途中、教祖の娘の手がフレディの股間へ伸びる。
夜、女性信者を集めて下ネタソングを歌い、飲みながら踊りまくる教祖。端に座って見つめるフレディ。フレディ主観のまま、教祖の周りの女はなぜか全員全裸になっている。奥さんは妊婦の腹で、老婆も全裸。
その後洗面所、教祖が顔を洗っていると、奥さんが手コキし始める。耳元で囁く奥さん「何をしたって結構よ。私と私の知り合いが気付かなければ。そうでないなら妙な気は起こさないで。おとなしくするのよ。誰にとってもよくないわ。ただでさえ問題を抱えてるのよ。イキそう?イッていいわ。あの妙な酒はやめて」「やめる」「イッて」丁寧に手の精子を拭く奥さん。

夕方、寝ているフレディを起こす奥さん「自分の欲しいものを見つけて、手に入れに行って。そしてここに居る間はお酒はやめて」と約束させられる。起きてエントランスに出たフレディ。早速酒を飲みながら、昼寝している教祖の息子に注意喚起「起きて親父さんの話を聞け」しかし、息子に言われる「何もかもデタラメだよ。わからないか?寝てたって何も損をしない」。即、息子を蹴るフレディ。そこに警察が。教祖は無資格の医師施設に医者ヅラで資金を流用したことで逮捕される。警察に手をあげたフレディもついでに連行される。
刑務所でも暴れるフレディ。教祖はここぞとばかりに
「君は過去、侵略者に捕まり、反応心を植え付けられた」と教義を説くが、フレディも檻越しに反抗し始めた「あんたは家族に嫌われてる!息子にも!」「君は誰に好かれてる?私以外誰に?私だけだぞ。私だけが君を好きだ。私一人だけ」洗脳の最も古典的な言い回しで、ようやくフレディは静まる。

裁判、罰金を払い釈放された教祖。
フレディ不在の食卓で、娘婿はフレディ批判を始める。奥さん、娘も同調。娘は「私を狙ってる」とも。股間を触っていた手は現実なのか、娘の言い訳か。しかし「我々は彼を救わなければならない」と教祖。
後日フレディも釈放される。抱き合い、地面に転げ周りながら再会を喜ぶ男二人。

そこから、フレディへの厳しい訓練が始まる。大勢の信者の前で無意味に壁を行き来して、窓の感想を言わされたり、奥さんとは集中力の訓練として見つめ合ったり、官能小説を聴かされたり、娘婿からは目の前で婚約者や母親への悪口を言われたり。何日も経て、やがて訓練は終わる。

山岳に行く教祖とフレディ。そこに埋めていた「割れた剣」という未発表の原稿を取り出す。
布教はアリゾナ・フェニックスへ。フレディは道やラジオで告知したり、得意の写真を撮ったりする。教祖の演説後、フレディは信者に「割れた剣」が最悪だったと言われ、またも速攻で道に連れ出しボコる。教祖も熱心な女信者から、新しい本はおかしいと指摘され、つい声を荒げてしまう。
教祖とフレディは、娘と娘婿と砂漠へ。そこで、バイクで目標点までめちゃくちゃスピードを出すゲームをする。バイクにまたがったフレディはバイクを飛ばしたまま、そのまま去っていく。また逃げ出してしまった。

婚約者の実家へ行くフレディ。しかし彼女は別の男と結婚して家を出ていた。彼女をずっと想っていたにも関わらず、諦めて静かに帰るフレディ。
映画館で寝ているフレディに、従業員が固定電話を持ってくる。教祖からで、「英国に来い。緊急的な問題を抱えていて、君だけが頼りだ。この方法なら狂気を完全に治せる。タバコのクールを持って来い」と言うのだった。「我々の最初の出会いを教えてやろう」とも。

イギリス支部に来たフレディ。受付で不審がられるも、重なったチラシを手に取り「俺が撮った写真だ」と。教祖の息子に執務室へと案内される。夫婦と再会を果たすが、もはや完全に主導権を握っている奥さんに「望みは何?写真なら必要ない」と拒否される。
奥さんが退室すると、教祖も「君はいつも自由だな」と、なぜ来たのかわからない顔。「君は海を股にかける誰にも束縛されない男、勝手気ままに生きろ、君はマスターに仕えない最初の人間になる」と説く教祖。フレディが最初の出会いについて問うと、教祖は「君と私はパリで伝書鳩通信員として一緒に働いていた」。「ここを去るなら二度と会いたくない。またはここに残るか」問いかける教祖に「たぶん次の人生で」と答える大人フレディ。「次の人生では最大の敵だろう。容赦しないぞ」。泣きながら笑うフレディに、教祖は『中国行きのスロウ・ボート』を歌う。

またも街をさまようフレディ。飲み屋で熟女をナンパし成功。屋根裏で初めての濡れ場になる。騎乗位の動きをとめて、女に矢継ぎ早に質問をするフレディ。プロセシングの真似ごとを始めようとするが、笑ってごまかす「入れ直せよ、抜けちまった」。
砂の女の横に寝そべるフレディ。冒頭と同じカットだがテイクは違い、安らかに見える。

以上が全てのストーリーである。

この作品のテーマ、言いたいことは何なのか。基本的には「フレディを治療することはできるのか?」という話である。
まず左右対称のポスターがロールシャッハテスト的デザインなことから、精神医療についての映画であり、そしてフレディ・クエルのクエルが鎮める、鎮圧する、という意味(quell)の為、フレディの中にある悪魔を鎮圧する話だと、名前で暗示している。
「容疑者、ホアキン・フェニックス」とも繋がっていて、容疑者~ではヒゲとデブ肉で汚くなったホアキンが買春、ケンカ、ドラッグをやりまくりながらアメリカ中を回り、コンサートの最中に客を殴って事件を起こす。この、どうしようもない暴徒をどうしたら静められるのか、という話である。
まず「①映画が完成した経緯」。そしてテーマの鎮静を助ける「②男同士の恋愛」と「③家族」。また、「④ストーリーはセリフではなく、歌で説明される」ということ。そして、「⑤意味不明なシーンは、PTAの好きな映画のパロディ」ということを、私見を交えて書き起こす。

①映画が完成した経緯
PTAがサイエントロジーに関する映画を撮ると報道されたとき、宗教の悪い部分を告発する内容ではないかと噂されていた。
PTAとサイエントロジーとの縁は、マグノリアに出演したトムクルが信者だったこともあるが、それ以上に、パンチドランク・ラブでアートワークとして雇った友人の画家、ジェレミー・ブレイクが信者だったことでも繋がっている。ブレイクは作品に印象的なグラフィックを残し、技術顧問として現場でも画面内にカラフルな光の波紋を加えた。
ブレイクと、映像作家テレサ・ダンカンの美男美女業界人カップルは、共にサイエントロジー信者だったが、教団の影響で被害妄想にとりつかれ、サイエントロジーを訴えようとしていた。2007年7月にテレサが薬物自殺、第一発見者のブレイクも一週間後に入水自殺した。この二人のニュースは注目を集め映画化しかけており、アンジェリーナ・ジョリーも当時ゼロ・グラビティ(2013)を断ってテレサ役で出演しかけた(シネマトゥディ・2010年3月1日)。だが後に頓挫。そのことから、ブレイクと繋がりのあったPTAが映画化するものと思われた。
しかしPTAはゼア・ウィル~以降、常人には真似できない特殊な脚本の書き方、演出をしており、それが今作でも用いられたので、サイエントロジーについて調べていくうち、結果的には全く違う映画になった。
監督のインタビューで、「船の後ろの波しぶきのシーン(ファーストカット、中盤、終盤)が、魂の漂流とかかっていて効果的ですね」と問いかけると「編集の時にいいと思ったから使ったんだ」と答えた。男二人が恋人のように見えるのも、そう撮ったからでは無く、「編集の時に気付いたんだ」とも。
「映画は編集室で出来るものだ。論理より本能で繋いでいる」と言う。それはシナリオでも同じで、いいシーンを思いつくと書く、という事を繰り返している。なので間が無く、省略が多い。

仕事関係なく、ゼア・ウィル~は「石油!」の本の中から、好きな部分だけをシナリオにしていった。それが溜まったので、そのまま撮って映画にした。原作に比べると断片的で、時間配分のバランスがおかしいが、その断片の演出、カメラ、セリフが圧倒的に面白い為、繋ぎ合わせるだけで映画に見えてしまう。一番わかりにくいのが、ポール・ダノ演じる双子である。普通は双子だと示すために合成して二人同時に映したりするが、初見の人は双子だと気付かない。それは「つまらないシーンを撮らない」やり方で作っているからである。
その手法で今作を書き、更に現場でもほとんどアドリブにまかせて変えた。ホアキンに関しては野放しだったので、刑務所の長回しは1950年代の博物館で撮影しているが、歴史的な遺物である刑務所の便器をいきなり蹴り壊している。ホフマンも悪乗りして自分の便器に小便している。この演技合戦はジャンゴ(2012)の出血ハプニングで一瞬戸惑ったディカプリオたちと大違いである。

連ドラの予定だったデビッド・リンチのマルホランド・ドライブ(2001)も、オチや意味は他の人が考えてくれると思って、何も考えず自由に撮っていた。局の色んなディレクター・脚本家が考えることによってどんどんおもしろくなっていくと。今作もホアキンが勝手に足すことによって、どんどん面白くなっている。

ただ、アドリブによる弊害もあり、フレディがバイクで突然去るシーンの前に教祖から心が離れていく決定的なシーンが無かったり、元々デパートのコート販売員とは濡れ場がある予定だったが、酔いつぶれたシーンに現場で変更してしまったので、ヤリチン役の割には序盤で濡れ場が無い。
またアドリブに加え、フレディ目線からしか撮っていないことによる弊害もある。手コキシーン、これも現場で撮り足したが、全編フレディが登場しているのに、唯一フレディが知らない所で起こるシーンである。これが妄想乱痴気シーンの後にあり、寝ているフレディの前にあるアドリブシーンなので、妄想なのか現実なのかわかりにくい。教祖の娘がフレディの股間を触るのも同様である。
しかしそれらは、普通の筋の通った映画とはステージが違うほどの面白さを、今作に与えている。また、最後にしか濡れ場が無いため「これはフレディが、砂の女でなく生身の女にたどり着く映画」という解釈も生まれる。

②男同士の恋愛
愛する女を求めて彷徨っているフレディ。たまたま船の上で出会った教祖は、自作の酒をいくら飲んでも平気で、更に要求してくる。初めて自分の作品が認められたことと、プロセシングによって二人は通じ合っていく。
プロセシングの途中、教祖がやめると「もっとやってくれ、楽しい」とフレディ。プロセシングをしてからは、フレディも女を誘わなくなる。好きな人を見つけて、セックスが必要無くなったことから、ラブストーリーでもある。
教祖からしたら、トラウマでおかしくなった獣をquellすることができたら、サイエントロジーの理論が初めて証明される。最高の素材が出てきた。フレディからしたら、冒頭の精神科医には言えなかった家族のトラウマを、教祖には言えた。初めて自分をセラピーしてくれる人が出てきた。お互いに依存し合った関係になる。

手コキしながら奥さんが教祖を注意するシーン、その文言は、不倫を認めつつも「フレディはやめろ」と言っている感じがある。酔っ払いとイチャイチャしている夫に、奥さんが怒っている。共に依存し合う恋愛映画でもあり、三角関係の恋愛映画でもある。

③家族
病院で
精神科医に「両親と故郷でテーブルを囲んで、酒を飲みながら笑っている夢を見た」と話したフレディ。デパートで家族写真を撮り始めると、被写体が自分には無いものだからおかしくなる。
今作の撮影は65ミリカメラで撮っているので、粒子が細かく情報量が多いのに、被写界深度が浅いので後ろはボケている。デパートではブッシュ・プレスマンというカメラで写真を撮っているが、その写真用カメラで映画全体を撮ったように見せかけている。 今作は家族についての映画でもある。
今まで、PTAは同じような、家族及び父についての映画ばかり撮り続けている。

ハードエイトはギャンブル狂いの青年を、父親のような殺し屋が助ける話。PTA自身、未成年時代ニセの証明書を作って、ラスベガスでギャンブラーとして生活していたことがある。ほぼ自伝である。

ブギーナイツは、学校の勉強が出来ず親から見放された男が、AV業界に入り、父のような監督のもと擬似家族を作る。PTA自身、高校を一回辞めて、落ちこぼれ高校に行くが、それも退学、金持ち高校に行くが、それもダメで、高校を3回、大学も一日で辞めている。勉強に興味が持てずについていけない男は、映像業界に入ったら成功する。ほぼ自伝である。

マグノリアは、親がガンで死んでいく中で、親と和解する話。PTAの父親は声優・司会者だったが、PTAが生まれると離婚して、別の女のところへ行った。なのでずっと父親のことを恨んでいたが、ガンで亡くなる前に介護しに行き、和解した。全力自伝である。

パンチドランク・ラブは3人の姉の中で居づらい思いをしながら、苛立つことがあると突発的に暴力をふるってしまう男の話。PTAも姉が3人居て、怒りをコントロールできないから、学校とかすぐに辞める。

ゼア・ウィル~は、石油王が家族を求めて裏切られ、息子だけは好きだが、自分の商売を引継ぎそうになったら捨てる。父側に視点を移しているが、家族を求めながら、同時に家族を拒絶している男の話。

ザ・マスターは父を求める獣のような男が、父のような教祖に助けられる。
実父との関係、体の中の悪魔、職場をすぐに辞めてしまうフレディのキャラは、やはりPTA自身である。
シナリオに着手した時にはそういうつもりは無くても、作り始めると全て同じ話になってしまうPTA。つまりザ・マスターも、いつものPTA映画だったのである。

④ストーリーはセリフではなく、歌で説明される

著作権料の発生を恐れて字幕が出ない歌もあるが、歌の歌詞がストーリーを進めている。元々PTAはそういうミュージカル要素、歌で気持ちや物語を説明する要素を使っていたが、前作ゼア・ウィル~は1900年代ということもあり、楽曲creepのガガッの演奏で有名なレディオヘッドのギタリストによる、現代音楽(実験音楽)に変えた。今作でまた、レディオを残しつつその手法を復活させた。

序盤、コート販売員と仲良くなるデパートでは、「Get Thee Behind Me Satan」(悪魔を退けたまえ)がデパートのBGMのようにかかっている。歌はそのまま現像室まで続く。

「悪魔を近くに寄せないでくれ。私は愛してはいけない人を好きになってしまって、私は悪魔に誘惑されているのに逆らえない。私の中に悪魔がいる」

フレディの中にいる悪魔とはセックス、酒、暴力。デパート内で全てやる。

裸の乱痴気シーンで教祖が歌っている歌は、ゲームのアサシン・クリードでも出てくるイギリスの船乗りの歌。
海賊や労働者が宴会及び、重い荷物を運ぶときに歌った蟹工船ソング。詩人・バイロンの詩「もうさまようのはやめよう」を元に作った、「GO NO MORE A-ROVING」。

「私はアムステルダムに愛する女を見つけたから、その場、その場、港から港を渡って女を抱くような生活はやめよう」

フレディも愛するマスターを見つけた。

教祖がフレディに歌う別れの歌は、村上春樹の短編にもなっている中国行きのスロウ・ボート(「(I'd Like to Get You on a) Slow Boat to China」)。

「君と一緒に中国行きの、すごく遅い船に乗りたいよ。いっぱい恋人はいるけれど、それは置いといて、君と二人だけで中国に、ゆっくり船で行きたいね」

別れることになったけど、本当は君と一緒に居たいんだというラブレター・フロム・教祖。
君と一緒に漂流し続けたい。なぜなら君が、僕の理論を助けてくれたから。君が居て、僕は完成できるから、と。劇中のほとんどの移動手段は船である。モデルの教祖L・ロン・ハバードも船乗りで、サイエントロジーは元々海と結びついている団体のようである。ファーストシーンでは海軍として船で戦場・中国にも行っている。全編船ばかりの、どこに行けばいいのかわからなくて海の上を漂流して、一般社会に適応できずに人生をさまよっている人たちの、船映画である。これが機関車ならトーマスである。

エンディング曲は、チェンジングパートナー(「Changing Partners」)。踊る相手を次々と変えていくダンス、ワルツについての歌。

「あなたとせっかく今までワルツを一緒に踊っていたのに、もう交代する時間がきたわ。そうすると、あなたはまた遠くに行ってしまった。次にあなたが戻ってくるまで、私は別の人と踊り続けないといけないのよ」

これも二人の関係を意味している。次々と相手を変えていく人生だけど、いつかまたあなたと会える日が来る。教祖が口すっぱく言っていた、前世・来世でも会う事を意味していると思われる。

⑤意味不明なシーンは、PTAの好きな映画のパロディ

フレディが、バイクで砂漠を疾走して失踪するシーンは難解である。単純に、見物客、息子、信者、三段重ねで「教祖はインチキ」と注意されたことが溜まったからだと思われるが、なぜ、それをこういう意図不明のバイクシーンにしたかというと、PTAが、勝手に映画リメイク欲求、に駆られて、隙あらば好きな映画をパロるからである。
PTAは、何の作品に影響を受けているかを、基本的に答えてくれる素直な少年である。

「メルビンとハワード」(1980)

俺は未見で、日本版DVDも無いこの映画のファーストシーン、ハワード・ヒューズがバイクで砂漠を疾走するシーンが、フレディバイクシーンのパロディ元のようである。WOWOWでのみ放映したから邦題が付いている。
監督は羊たちの沈黙(1990)のジョナサン・デミ。ハワード・ヒューズはアビエイター(2004)でディカプリオも演じたことのある、実在の大富豪。

牛乳配達の貧乏人メルビンが、砂漠で事故ったハワードを助けたところ、ハワードの死後、遺書から相続人の一人に選ばれ、遺産150億円を引き継ぐことになった。しかし裁判で負けて結局貧乏なままの実話を、そのまま、メルビン側の証言通り撮った映画のようである。
PTAは、マイナーだがアカデミー脚本賞も受賞したこの映画を、人生ベスト5ぐらいに挙げていて、多大に影響を受けている。
マグノリアでは、ハワードを演じた俳優、ジェイソン・ロバーズを自分の父親の分身のような役でキャスティングした。フレディが戦争で魚雷の燃料を飲むシーンも、父のように慕うジェイソン・ロバーズから聞いた戦争体験談を元にしている。マグノリアが遺作となった。ガソリン飲んだらだめだ。

「エルマー・ガントリー/魅せられた男」(1960)

この映画も俺は未見。ストーリー全体と教祖の役名の、パロディ元のようである。
バート・ランカスター主演のこの映画は、今作、更にゼア・ウィル~の伝道師の元にもなっている。
ゼア・ウィル~の原作「石油!」はアプトン・シンクレアだが、その弟子、シンクレア・ルイスの書いた小説「エルマー・ガントリー」が、この映画の原作。どちらも1927年出版。
ゼア・ウィル~でポール・ダノ演じる伝道師、イーライ・サンデーのモデルは、ビリー・サンデーとう実在の有名な伝道師。イーライの如く派手なアクションで入信を勧める1863年生まれ。
伝道師ビリー・サンデーはイーライ・サンデーだけでなく、「エルマー・ガントリー」に出てくる役名エルマー・ガントリーのモデルにもなっている。
主人公は、ならず者で酒飲みでヤリチンの流れ者セールスマン。彼は若い女伝道師に出会い、好きになり、気を引こうとその宗教団体に入って、暴力&セールスマン時代の口八丁で用心棒兼伝道師として働く。という話らしい。
口八丁なキャラは違うが、これは、ザ・マスターと同じ話である。エルマー・ガントリーは男女の話なので単純だが、ザ・マスターは男と男の話なので、難解になってしまった。

そして「ランカスター」という教祖の役名は、この映画の主演、バート・ランカスターという俳優の名前から取っていると思われる。「ランカスター」はヨーロッパ貴族の珍しい苗字なので、1930~50年代のアメリカの精神状況、宗教、経済を研究し尽くしているPTAが、偶然ではつけないと思われる。ランカスター・ドッドの名前の元はバート・ランカスターで、アプトン・シンクレアの弟子はシンクレア・ルイス。
ゼア・ウィル~のラストのボウリング場は、主人公のモデルの富豪、エドワード・ドヘニーの屋敷の地下にある朽ちたボウリング場を、またボウリング場に改築し直して撮影している。そんな、ディティールにこだわりすぎて全体がよくわからなくなるPTAである。

「光あれ」(1946)

未見だが、そもそもこれも日本版DVDは無く「そこに光を」という邦題もあり、「そこに光をあらしめよ」としてDMMで1時間の字幕なし配信のみ発見した。
フレディが病院で精神分析を受ける、今作の出発点となるシーンの元になっている。
1945年に戦争が終わって、米軍からの依頼で、精神分析医たちが兵士にセラピーをする様子をジョン・ヒューストンという巨匠監督(アンジェリカ・ヒューストンの父)が撮ったが、結果的には兵士が皆PTSDになっている実態を暴いてしまったので、あかーん、と、最近まで米軍が封印していた。
その中のいくつかの映像を、病院シーンでそのまま再現している。こういう、まず見ることさえ難しい記録映像をパロディするPTAである。

「シャイニング」(1980)

やっと観ているパロディ元。そしてこのブログはここでようやく終わります。直接的なパロディではなく、一番難解な、終盤、映画館での電話シーンの作り方の元になっている。と思われる。
映画館にそんなサービスなど無いが、上映中寝ているフレディの客席に、従業員が丁寧に電話を持ってくる。電話の教祖の言葉通りイギリスに行ったら、教祖居る。このシーンは基本的に夢だと思われるが、イギリスに教祖が居るから訳がわからない。全裸ダンスシーンは
酔っ払いのイメージショットとわかるが、電話が夢だと、教祖がイギリスに居るのはおかしいのである。

PTAはシャイニングにも多大に影響を受けている。ステディカムの使い方、撮り方もかなり似ている。
ゼア・ウィル~はポール・ダノをボコった後、陽気なクラシックが鳴り、そのままエンドロール突入だが、これはシャイニングのラストと同じ手法である。ジャック・ニコルソンが幽霊の一員として記念写真の中に入って、悲惨な事なのに、楽しいクラシック風音楽が被って終わる。長かったけど全てはコメディでしたー、のだめカンタービレでしたーという終わらせ方である。

シャイニングはホラーにも関わらず、幽霊は全てアル中、ジャック・ニコルソンの妄想として撮られている。廊下が血まみれになるシーンがあるが、あれは男の子の予知夢と、予知られるニコルソンの心の中である。
監督キューブリックは、幽霊は宗教だから、と信じないが、超能力は信じている。シャイニングは、男の子の超能力によって、幽霊を信じている親父をやっつける話である。
キューブリックは原作のスティーブン・キングにいちいち電話して「君は幽霊や死後の世界を信じるてるのかい?」「信じてますよ」「幸せなやつだね」と電話を切った。なのでキングは2013年に入っても、キューブリック版シャイニングをディスっている(映画.com 2013年9月30日)。
ただ一点解せない。ジャック・ニコルソンが嫁によって倉庫に監禁された時、幽霊が助けてくれるシーンがあるからである。シャイニングに妄想以外の幽霊が出てこないという事は、「キューブリックからの電話」をキングがすべらない話として当時から吹聴していて有名だったので、倉庫シーンも、当時から不思議がられていた。
『1シーンだけ幽霊が実在する』
これは、ミスディレクションの一種である。このシーンのせいで、全体の理論が壊れて、一つのテーマで読み解けない。全体が破綻するシーンをわざと一ヶ所入れると、心の中で解決しきれないから、いつまでも語られるのである。

シャイニングリスペクトのPTAは、映画館の電話シーンで、このやり方を真似たのだとだと思われる。
イギリスに来たフレディを見た教祖は、どした?ってリアクションである。フレディが「夢を見た」と言っても無反応。霊感があるのは、教祖ではなくてフレディだったのではないか。超能力者であるべき教祖が理解できない事を、フレディの霊感でやってしまった。今作は、マスターは誰か、という映画でもあったのである。
フレディが居なければ、教祖のモチベ的にもサイエントロジーは成功できなかった。船で奥さんは「夫はあなたにインスパイアされたのね」と言っている。はてなキーワードで「
inspire」の最初に載っている訳は「霊感を与える」である。
教祖にとってのマスターはフレディだった。その後、フレディはプロセシングを女にやってみせる。フレディがマスターだったから。そして砂の女と幸せそうに抱き合って終わる。彼は煩悩から解き放たれて解脱した。涅槃した。テーマである鎮静はなされた、と。マスターと会っていろんなことがあったど、為された。

以上。
町山さんは他に、「猿を人間にする話」とも言っている。フレディが壁の往来の訓練に疲れて苦しむカットと、刑務所の檻の中で暴れるカットで、ホアキンは明らか動物園の猿かゴリラを意識した役作りをしていると。
ホアキン・フェニックスのおかげでこんなにも、いくつもの解釈が生まれる。ジェレミー・レナーは好きだが、本当にホアキンが配役されてよかった。
PTAの次作Inherent Vice(原作LAヴァイス)は、マリファナ中毒の探偵がドタバタと活躍する、ロバート・ダウニー・Jr.主演のエンタメ映画である。次はシャーロック・ホームズ(2009~)のように、肩の力を抜いて楽しく見れる。ここで新しいニュースが入ってきた。ジュニアさんが降板して、ホアキンがキャスティングされた。

2014年3月26日水曜日

ジャンゴ 繋がれざる者(2012)

歯医者兼、犯罪者を殺す賞金稼ぎをしているドイツ人、ドクター・シュルツはある黒人奴隷を探していた。ターゲットである悪人三兄弟の顔が確実にわかる、兄弟の元で働いていたジャンゴである。奴隷商人二人組のフリをして三兄弟の働く農場に行ったシュルツとジャンゴは、速攻で彼らを抹殺。二人の賞金稼ぎの旅、及びジャンゴの妻を農場主から連れ戻す旅が始まる。いつの間にかジャンゴは、シュルツの影響で元奴隷とは思えないルパンと次元みたいなキャラになっていく。
ジャンゴのあらすじである。
映画評論家の町山さんが言うに、アメリカの奴隷制度を描いた映画は三本しかないらしい。マンディンゴ(1975)、それでも夜は明ける(2013)、今作である。

映画が、ドラマや本やマンガと違う良いところは、二時間見りゃ終わるというとこにもあると思う。価値のある映画の多くは原作者が何年もかけて考えたことや体験したこと、頭のいい監督・脚本家の全てが二時間に凝縮されている。自分が高校の時に知った世界何番目かに有名な今作の監督、クエンティン・タランティーノはその時点で三本しか撮っておらず、その世界観を把握する、もしくは彼について会話をするにはたった三本見るだけでよかったのだった。その手軽さもファンを増やした理由かと思う。

そして奴隷制度の現場。これに関してもたった三本見るだけで網羅できてしまうというのだ。今作はその中で始めに見た一本だが、面白さよりも落胆が上回ってしまった。それはタラのその衝撃的な三本、レザボア・ドッグス(1992)、パルプ・フィクション(1994)、ジャッキー・ブラウン(1997)、そしてそれに追随するキル・ビル(2003~04)、デス・プルーフ(2007)の、あまたの映画を孕んでスタイリッシュにした個性が強すぎるB級ノリが、ほぼ無くなっていたからである。その傾向はジャンゴの前作、イングロリアス・バスターズ(2009)からで、デス・プルーフのアクの濃さと赤字への反省なのか、おもっきり大衆を意識した映画になってしまったのである。しかしマンディンゴ(1975)を見てから今作を見ると、作品の印象がガラっと変わってしまった。
マンディンゴは、ご存知の通りリンカーンが南北戦争中に開放宣言を出す前、黒人が眼鏡市場でなく奴隷市場で売られ、めちゃくちゃ奴隷にされてた時代にすすんでいく、農場の白人の昼ドラ的映画。そして、それでも夜は明けるはその時代の中で、南部でなく北部に居た自由黒人が、南部にさらわれて奴隷にされてしまう映画である。
マンディンゴがアメリカに封印されたにも関わらず、時代が変わり、それでも夜は明けるはアカデミー作品賞を取った。この二本のアメリカでの受け取られ方の変わりようが、オバマがどうであるなどと語られることがあるが、それ以前に今作は、そんなタブーを軽い感じでウエスタン風復讐劇エンターテイメントにしてしまっていたのである。ただの桃太郎みたいな映画だと思っていたら、猿はヒザに爆弾を抱えながら明るく振舞っていたのである。そんな映画だとは知らずに、「あいつ変わったな」と、新しいレベルに達したタラを見限っていた自分の低学歴ぶりを呪った。作品は生ものではないが見る人は生ものなので、見た時期の私生活や知った事実によって全くおもしろさが変わってしまう。
俺は中卒と思って読んでいただきたいが、奴隷制度と、その作品の舞台になった年を時系列に並べると以下のようになっている。

マンディンゴ 1820年代
それでも夜は明ける 1841年
ジャンゴ 1859年
実際の南北戦争 1861~65年
実際の開放宣言 1862年
南北戦争中が背景にある映画
続・夕日のガンマン(1966・イタリア)
コールドマウンテン(2003)
リンカーン(2012)など。である。

この中で明らかに異色なジャンゴだが、続・夕日のガンマンは近いところがある。そのはず、続・夕日のガンマンはタラの生涯ベスト映画である。
今作は基本的には黒人の観客を喜ばせる企画意図があり、ジャンゴが三兄弟からムチを取り上げて、逆に白人をムチ打ちするシーンは、黒人から歓声が上がったという。その効果を狙うように、ここではエキストラの黒人の顔芸アップを使っている。その辺りの事情をわかってからジャンゴの前作、イングロ~を見ると、やはり同様に印象が変わってしまう。イングロ~は第二次世界大戦中のフランス、ナチスに家族を皆殺しにされた少女は、成長し単館の映画館を経営しているが、そこにナチスの主要メンバーがプロパガンダ映画の上映会のため集まることになり、そこでヤツラを焼き払う計画をたてる。同時に別ルートでナチス殺しをしようとしていた暗殺軍団・イングロリアス・バスターズの暗躍を描く。
この映画もやはり、実際にユダヤ人の観客が多く集まったという。タラが黒人ではないように、タラはユダヤ人ではない。黒人やユダヤ人の友人たちの為に、こういった大きな意味での復讐映画を撮ったという。
そしてタラも個人的に、ドイツが自身の愛する「映画」を政治の宣伝に使っていたことが許せなかったという。
だがしかしこういった奴隷制度映画のヤフーレビューなんかを見てると、「日本でも同様、慰安婦が~」などと、絶対に製作者が意図していないことを書いてる人がいる。映画をプロパガンダに使う奴はシネ!だが、感想の欄にプロパガンダ出す奴もシネ!である。そしてなぜか今作をレンタル開始時独占契約していてステマぶりもパなかったTSUTAYAの戦略もほどほどに!である。
そんなジャンゴのオファーを断ってまでも、人生
で学んだことを映像化しようと監督デビューした俳優が居る。インセプション(2010)や500日のサマー(2009)のジョセフ・ゴードン=レヴィットである。一番鮮度のいい時期で、他にも数々の素晴らしいオファーがあっただろう。それらを断り完成させた「ドン・ジョン」(2013)は、500日のサマーの対として作ったものだろうが、そこには遠く及ばずしこりたくなるだけの糞薄いC級ラブコメになってしまった。彼は、人生をかけて犠牲を無視して哲学をフィルムにひり出しても、価値が無い映画は作れることを思い出させてくれた。

2014年3月14日金曜日

メン・イン・ブラック3(2012)

MIBは1(1997)、2(2002)、3まで全て同じ監督で、過去作にアダムス・ファミリー(1991)を持つバリー・ソネンフェルドという人のようだが、製作総指揮のスティーブン・スピルバーグの力加減が多いように思われる。
ファイナルカット権という言葉が示す通り、ハリウッドの監督は編集も好きにできず、上の人の指示に従って内容や編集を変更せねばならないが、製作総指揮より上は基本居ないため、誰にも邪魔されずに監督業に近いことができるらしく、なのでスピルバーグは、監督よりも製作総指揮の作品が多い、と、嘘が本当かわからんがネットで見たことがある。実際には製作総指揮の仕事はかなりあやふやなようで、現場に張り付き渦の中心に居る場合もあれば、スタッフ試写にだけ来るだけの場合もあるようだ。

このシリーズの素晴らしいところは、やはりエンタメ性の高さである。「陽気な黒人」と「都市伝説」という、B級臭い要素を元ラッパーのジブラ兄さんじゃないわウィル・スミスを得たことにより大成功させた。例えばバック・トゥ・ザ・フューチャー(1985)も同様、公開前はマイナーなB級要素が強いためヒットの見込みがなかったという。現在は親ばかになって息子と娘を売り出すことばかり考えているウィル・スミス。アフターアース(2013)でのKYさとでくの坊ぶりがパないが、このシリーズばかりはウィル・スミス以外の誰が演じても成功しなかったであろう。そしてウィル・スミスもこれが無ければここまで成功しなかったであろう。今作とウィル・スミスの運命的出会いは、小学生当時、ソフトバンク無き時代にほぼ黒人初体験であった我々世代に、黒人かっけーし面白れー、という印象を与えた。大人になって東京に出てきて、黒人が基本こんなに恐ろしいものとは思いもしなかった。ウィル・スミスどころかエディ・マーフィーなども一人もおらず、全員ジャンゴだった。

そもそも、土台になっているのは、「UFOを見た後は、グラサンの黒服が事情を聞きにくる」という、だからどしたんなという都市伝説である。これを再現する貧相なおばさんのシーンもあるが、非常に短い。
バック・トゥ・ザ〜も、生まれた最初のアイデアは「勉強、勉強とうるさい親だけど、高校時代を覗くとテストでカンニングしてた」という糞つまらないもの。カンニングシーンは特典DVDには入っているが、ファイナルカット権によってか、本編では切られている。そしてその二つを切った犯人と思われるのは、製作総指揮のスティーブン・スピルバーグである。更に両作品とも「ママ。あれ見てー空飛ぶ車だよー」「何言ってるのこの子は」といった、アメリカ人以外の感性の人にため息をつかせる、ドヤァシーンが無い。そして恋愛ドラマも無い。特にMIB1のヒロインである非・小保方晴子さん系女検視官は、人生に男を必要としない死体オタクな美人キャラとして異彩を放ちすぎている。更にファッション性である。バック・トゥ・ザ~のマーティの赤いベスト、そしてMIBは喪服。インディペンデンスデイでのウィル・スミスなど、私服はオレンジのニッカポッカである。
この絶妙のさじ加減でSFを作る稀代の天才が製作した近作は、日本で2015年公開されるであろう、クリストファー・ノーラン監督がタイムスリップに挑む本命作、インターステラーである。

MIB1の魅力、それは視聴者が自分の常識と違う、知らない世界にエスコートされる点。宇宙人たちはなぜか創価同士のように、お互いがそうであるとなぜか把握している宗教的な点、更によく苦情が来なかった、宇宙人の動きが身障者にしか見えない点。そんな1に比べ、2がなぜか完全なコメディになってしまい全く面白くない。今作3は、その反省を生かしてか面白くなっていた。1が設定紹介になり2以降が楽しめる作品と違い、「知ること」を楽しむ本作は、どう考えても1を超える作品を作ることは難しい。それでも3は頑張った。
悪党が宇宙人の兵器で過去に戻り、自身を逮捕した主人公の相棒、トミー・リー・ジョーンズ演じるKを殺すと、現代は宇宙人に征服され始める。過去に戻って相棒を守り悪党を殺すため、ウィル・スミスは悪党と同じ方法で60年代にタイムスリップする。飛躍的にスケールがでかくなった世界を、なんとか上手くまとめあげた。単純にジョーンズがアクションができない故だろう、ヤング・Kに抜擢されたジョシュ・ブローリンの憑依演技もすばらしい。
だがラストの辻褄を1に合わせると、1のあの見初めるシークエンスの意味が、、、まぁ面白いから許すが。

他の作品では、ゴーストバスターズ(1984)やその追従であるエボリューション(2001)、陰謀のセオリー(1997)が似ている。
ゴーストバスターズは言わずもがな、面白い奴らがモンスターを殺しまくる点、そしてラスボスが笑かしにかかってんだけどスベってる点である。バスターズは巨大なマシュマロマン、MIBは巨大なゴキブリである。
陰謀のセオリーは都市伝説が本当に起こってしまうという点。統合失調症気味の中年が都市伝説を信じまくっているが、しかしそれが本当で、CIAに追われ始めるというもの。メル・ギブソンの深いシワと天パ具合が派遣とか行ったらいる、45歳くらいのヤバイやつに似過ぎていたせいで、リアルすぎると評価されずに終わった。

そして更に似ている映画がやってきた。ゴースト・エージェント/R.I.P.D.(2013)である。悪徳警官を相棒に持ったが為、純金を横領してしまい、その相棒に殺される主人公。死後の世界に行く途中で取調室のような部屋にすべりこまされ、世界に紛れ込む幽霊退治をするために組織されたR.I.P.D.に所属させられる。死語そっち側で新しい相棒と組むが、その相棒は西部開拓時代に死んだおじさん。それをビッグ・リボウスキ(1998)のジェフ・ブリッジスが、最高なことにあのキャラまんま演じている。
アメリカが本気でスペックを作ったらこうなるような、エンタメの見本を見たようで、正直むちゃくちゃおもしろかったのだが、評価も収入も最悪である。ヤフーレビューを見るとやはりMIBに似過ぎていることが原因のようだ。俺がそれを気にならなかったのは、誰も若者数人が出るホラー映画をスクリーム(1996)のパクリだと言わないように、俺の中でMIBがバディものコメディの定番に、脚本の手本になりすぎているからである。

2014年3月5日水曜日

アカデミー賞結果

アカデミー作品賞は予想通り、そもそも大方の予想を立てていた人の予想がそうであったが、「それでも夜は明ける」になった。
その他、
監督賞は、アルフォンソ・キュアロン(「ゼロ・グラビティ」)
脚本賞は、スパイク・ジョーンズ(「her 世界でひとつの彼女」)
脚色賞は、ジョン・リドリー(「それでも夜は明ける」)
主演男優賞は、マシュー・マコノヒー(「ダラス・バイヤーズクラブ」)
助演男優賞は、ジャレッド・レト(「ダラス・バイヤーズクラブ」)
助演女優賞は、ルピタ・ニョンゴ(「それでも夜は明ける」)
となった。
技術系は作曲も含めてゼロ・グラビティが7部門総なめし、公開後リア充からの推しが強かったウルフ・オブ・ウォールストリートと、最多ノミネートのアメリカン・ハッスルは全くの無冠に終わった。ディカプリオとO監督、おまえらどんだけ嫌われとるんだということである。
ディカプリオが本当に今後一線を退き環境保護に勤しむのか、動向が注目される。
予想のブログを書いた後にダラス・バイヤーズクラブを見た。今作はエイズで一ヵ月後に死ぬと告知された主人公が、無認可の薬で生き延び、更にそれをバイヤーズクラブで会員に売る、という話。死ぬと告知された日数までのテロップを出し、軽いサスペンスのように淡々と見せていく。そのアンチ人間ドラマ的な冷静さと、医者以外底辺の人しか出ないところが売りである。
主演のマシュー・マコノヒーと、助演のジャレッド・レトが受賞した。そして淡々さが売りのはずだが、彼奴等の「いい表情」をけっこう長く映したりしており、結局は人間ドラマじゃねーかと、そこが残念ではあった。このあたりは完全に監督の裁量である。
賞の最初に発表されたのが、ジャレッド・レトの受賞である。主人公とはエイズ感染仲間で、後に仕事仲間にもなるゲイで、ゲイ嫌いの主人公と付かず離れずの友情をみせる。
思い起こされるのが、病気ものではないがヘドウィグ・アンド・アングリーインチ(2001)でゲイを底抜けに明るく演じたジョン・キャメロン・ミッチェルである。ヘドウィグと比べて見てしまい、なぜかムカついてきた。ジャレッド・レトの本業はバンドのボーカルのようであり、つーかお前ゲイじゃねえじゃんという先入観も、ムカつきに拍車をかけたのかもしれない。しかしジャレッド・レト、よー見たらエンジェル・フェイスだったのである。エンジェル・フェイスとは、ファイト・クラブ(1999)でボッコボコにされる金髪のタイラー信者である。
その後パニック・ルーム(2002)では強盗犯のリーダーを演じ、いやあんたデビッド・フィンチャー組かいと、なんだ君かぁと、突然彼は許された。
そして主演のマシュー・マコノヒー、直後に日本の連ドラでぱくられた、ウェディング・プランナー(2001)などでゴリゴリのアイドル路線だったが、10年ほど経ちおっさんになり、突然演技派として復活した。心身健康で業界に身を置いている以上は人生何が起こるかわからん現象である。
そのキャラ作り、これはガリ痩せしたことも注目されたが、何より基本電気工のくせにアウトローで性依存症あるというキャラクターがすばらしかった。変に顔が綺麗なぶん、本当ただのヤリチンおじさんにしか見えない。
性依存症と言えば、それでも夜は明けるの監督の前作、SHAME-シェイム-(2011)である。これも、予想のブログを書いた後に見た。それでも夜は明ける同様、とにかく映像のクオリティが高い。照明を全く当てずに夜道を歩いている映画を初めて見た。それが非常に品よく映っていた。内容は、男前の性依存症が、いろんな人とやりたいが為にあらゆるものを失っていく、でも本命だと勃たないという、コメディでありそうな話をひたすら生真面目にみせていく。長回しで会話もリアルである。見ている人の性依存度にも左右されると思うが、自分は物語が進むにつれ、彼の苦しみにこちらも同調しかなり痛くなった。
これだけやっても大赤字で、ビデオ屋ではエマニエル夫人(1974)などと一緒にエロティックの棚にあった。身を削りまくるスティーヴ・マックイーン監督が、これからどうなるかかなり楽しみである。鬱にだけはならんでほしい。一方本家、俳優の故スティーヴ・マックイーンだが、孫がピラニア3D(2010)に出ていることに気付いた。名前はスティーブン・R・マックイーン。ややこしさが増していく。ピラニア3D、内容はリア充たちが地割れから発生したピラニアにボッコボコのグッチャグチャにされる、ホステル(2005)の流れからの拷問系大人数ホラーである。なぜかバック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ(1985~)からドクとジェニファーが出演している。リア充に死んでほしい人には持って来いの映画。連続でピラニア3Dの続編、ピラニアリターンズ(2012)も見たが、こちらの糞映画っぷりは果てしない。久々に全力で失敗してる映画を見た。人がナイロン製のヒモにたまたま首がひっかかって死んだり、その飛んでいった首は血まみれの巨乳にパイズリされたりする。しかも撮影時から3Dで撮られている。本人たちは成功すると思って撮っているのである。一応ドクはまだ出ている。なんならマシュー・マコノヒー並に、いきいきと演技していた。

2014年2月26日水曜日

ロスト・ハイウェイ(1997)

世代ではないので当時の事は知らないが、日本でもツイン・ピークス(1990~)というドラマが、「24」(2001~)のように一般視聴者の間でもブームを起こしたらしい。
田舎の、街一番の人気者女子高生が撲殺された事件を主軸とし、薬、超常現象、近親相姦と、様々なヒントを拾って展開していくという、グロくて非常にわかりにくいドラマがヒットしたのは、牧歌的なのに不気味な雰囲気や、サブプロット(メインでないプロット)の面白さからだろうか。ツイン・ピークスとX-ファイル(1993~)を混ぜ合わせ、日本風ギャグを加えればケイゾク(1999)、トリック(2000〜)、SPEC(2010〜)の堤三部作となるだろう。やはりわかりにくくて不気味なものというのは、大衆を惹き付ける何かがあるようだ。圧倒的な技術力はもちろん、何を見せないか見極めるセンスが大事なように思う。
そして三部作といえば、デヴィッド・リンチ監督がツイン・ピークスの後に同様の手法で撮ったロスト・ハイウェイ(1997)、マルホランド・ドライブ(2001)、インランド・エンパイア(2006)の意味不明三部作である。
今作は特に、ブルーベルベット(1986)、そしてツイン・ピークスという田舎を舞台にした前作・前々作から、突如都会に舞台を移したので、デヴィッド・ボウイのテクノ風オペラをBGMにひたすら夜道を疾走するというオープニングからもわかる通り、非常にスタイリッシュで攻撃的になっている。そして収入は予算の五分の一という大赤字になった。

玄関先に家を盗撮されたビデオテープが続けて届き、嫁と共に怯えるミュージシャン。警察に届けるが、3本目のテープではミュージシャンが嫁を殺している映像が映っており、嫁殺しで逮捕される。だが死刑執行予定の監獄の中で、ミュージシャンはなぜか気のいい不良の自動車整備士のお兄さんに変わってしまい、しかたなく釈放される。彼はマフィアのボスの女に一目惚れ。だがその女は髪型以外ミュージシャンの嫁そっくり。
上記は前半のあらすじだが、全く意味がわからない。嫁が黒幕だとか白幕だとか、そんな次元の話ではない。ただしわからないながらも、何か面白いので普通に楽しめてしまう。そして悲しいことに楽しめてしまった人に勝手に解釈され、とんでもない映画がやってきたと祭り上げられる。蛇にピアスの作者・金原ひとみが、今作をベスト映画に挙げ「すべて必然性がある」と言っていたのは何を言ってるんですかこの人は、と思った。
だが蓋を開ければ、手品の種明かしのように、何だそんなことかと理解できる。金原ひとみも開けたのだろう。
リンチ映画の中でも最も有名で人気のある、マルホランド・ドライブの種明かしをしている本はいくつかあり、「時計じかけのハリウッド映画」「アカデミー賞を獲る脚本術」が詳しい。あえて説明すれば、構成を破綻させているのだ。①売れない女優の苦しい現実→②理想の自分の妄想→③自殺。この段取りを、②の妄想を120分見せた後、①③の現在の現実とその回想を混ぜた第二部が始まるので、理解できなくなる。何の説明もしてくんねー。フラッシュバック使えや!という不要な老婆心を抱かせる。②の妄想120分はTVドラマのパイロット版として単体で作ったものなので、そもそも妄想ということ自体がリンチの後付けなのだが。
今作ロスト・ハイウェイについては、映画.comで評論家の町山さんがデヴィッド・リンチにインタビューした事で、蓋が開いた。O・Jシンプソン事件という、日本では類を見ない、芸能スキャンダルが94年に起こった。O・Jシンプソンはアメフト選手出身の俳優で、最近シュワが「ターミネーター役が自分に来る前は彼が内定していた」と明かしたほど、それなりに芸能人として芸能界に居たようだ。赤井英和みたいなもんだろう。だがなんと、嫁を殺して警察とカーチェイスしてヘリで中継されながら逮捕され、そしてなぜか無罪になるという田代まさし以上の祭が開催された。
後にデヴィッド・リンチはTVにのほほんと出ているO・Jシンプソンを見て、何でこの人は妻殺しといてこんな余裕なん?と、あそうかこの人は別の人間が妻を殺したと思い込んでんだ、自分の中で自分とは違う別の人格を作っていたんだと、勝手に解釈したのである。シンプソンからすれば、どうしてそんなにおおきくなっちゃったんですかー?解釈。である。真面目にやってこなかったからである。
そしてそれを、ただの実際の事件をモデルにしたフィクションを、何の説明もせずにいきなり、同じ人物であるという設定の男が役名も役者も変わって出てきたりするから訳わからんくなる。でも楽しい。
ツイン・ピークスの前にブルーベルベットで見せて、今作以降は封印した、現実性の無い、登場人物の気持ち悪すぎる死に様、そしてマルホランド・ドライブにも通じる出自不明の登場人物のハッタリ、美しキモい悪女役のパトリシア・アークエットの存在感。この波に乗れるかどうかの簡単な選別方法として、この三部作とツイン・ピークスの源流である、ブルーベルベットの、更に源流になっている曲、「BOBBY VINTON-BLUE VELVET」をYouTubeで聞いてみることをオススメする。この曲の気持ち悪さに魅力を感じることが出来れば、後は快楽が待っている。ちなみにパトリシア・アークエットは、バッファロー66(1998)のビッチ同級生役やパルプ・フィクション(1994)のピアス女役を演じたロザンナ・アークエットの、実妹である。
訳わからんが魅力満載で、三作通して見ればデヴィッド・リンチ、そして映像表現の魅力に気付くだろう。見た後のネットの解説検索は必須だし、読むのに本編ぐらい時間がかかるかもしれないが。