2014年12月28日日曜日

恋愛睡眠のすすめ(2006)

自分の編集をしていて更新できなかった。
更に誘いもいくつか断ってしまった。現代美術館のミシェル・ゴンドリー監督のイベントに誘われたが、手が離せず行けなかったのだった。
ミシェル・ゴンドリーは、フランス出身で、映像の進化を一人で何年も進めた巨匠PV監督、及び中堅映画監督。
親がミュージシャンで、おじいちゃんがビートルズも使った実験音楽系楽器を発明したこともある発明家の、芸術エリートの家出身。
全盛期の本人出演のヒューレットパッカードのCMで、アメリカでのポジションがわかる。まぁ英語なのであんまわからんが『パソコンとアナログを行き来する男』というCMだろう。あと青い文字からようつべへ飛べます。

20代までは自分のバンドのPVを撮影していただけだったが、その映像でビョークに見初められる。
メジャーデビューは、ロシアアニメ・霧につつまれたハリネズミ(1975、ユーリ・ノルシュテイン監督)からインスパイアされた、ビョークのPV、ヒューマン・ビヘイヴィアー(1993)。
個人的に好きなPVは、スパイク・ジョーンズが監督したファーサイドのドロップ(1996)の逆回転映像に対抗したチボマットのシュガーウォーター(1996)(この際の『スローテンポの女ボーカルを画面分割で撮る』方法を、15年キャリアを積んだ後に撮り直したのがリヴィング・シスターズのハウアーユードゥーイング?
そして幼少期になぜか四国で見てトラウマ、ビョークのアーミーオブミー(1995)。

また、玄人向けに、映像のことを知っている人向けに作っているのが、
『モーションコントロールカメラ』を使って、カメラに何度も同じ動きをさせて合成させている、カイリー・ミノーグのカムイントゥマイワールド(2002)や、PVあるあるをパロディ化したような、アフターエフェクトのレイヤーを実写で撮ってみた、ケミカルブラザーズのレットフォーエバービー(1999)、その『わざわざ実写でやる』ことと商品の『高性能さ』のギャップの面白さを使って、携帯本体の中に人間が取り込まれるモトローラのCM

スミノフのCMでは、マシンガン撮影をマトリックス(1999)より前に使っている。
更に、日本人アラサーは長野五輪の際にゴンドリーのコカコーラのCMを腐るほど見ており、五輪はマトリックスの一年前であるので、マトリックスのマシンガンショットに驚かなかったかもしれない。

また、日本人監督で撮られた中では今年一番有名なPV、OK Goのアイウォントレッチューダウン(2014、関和亮監督、ダミアン・クーラッシュ監督)までも、それ以前にゴンドリーが似た映像を撮っていた。ボーカルのダミアン・クーラッシュは、「はじめはゴンドリーにPVを撮ってもらおうと、近いことをして気を引こうとしていた」というインタビューから、このゲイリー・ジュールスのマッドワールド(2001)を見てない訳がないのであった(ゴンドリーのGAPのCMにも似ている)。

一番有名なのは、元バンドのドラムであることを活かしたケミカルブラザーズのスターギター(2002)だが、これは一度もピンときたことない。
しかし、ゴンドリー展に行けなかった代わりに久々見返した映画「恋愛睡眠のすすめ」に、ピンときてしまったのだった。

今作、恋愛睡眠のすすめはゴンドリーが監督したフィクション8作品のうちの3作目。新作レンタルで並んでいた当時観て「これは失敗作で、一生見るこたねーだろ」と思っていたが、時を経て主人公の気持ちがわかる年齢になってしまったのだった。ちなみに予告詐欺がすごく、本編は非常にわかりにくい、ハテナばかりの内容である。

ゴンドリーの映画一覧

ヒューマン・ネイチュア(2001)
PV監督仲間であるスパイク・ジョーンズと、脚本家チャーリー・カウフマンの、マルコビッチの穴(1999)コンビの膳立てでコメディ映画監督デビューしたが、いきなしつまずく。

マルコビッチ映画化以前、放送作家のチャーリー・カウフマンは名前を売るため、あえて映像化不可能なマルコビッチの穴の脚本をハリウッドに流布、予想通り放置されていたが、スパイク・ジョーンズがコッポラ(ゴッドファーザー・1972・他)の娘、ソフィアと結婚したことにより、義父コッポラがジョン・マルコビッチを説得してくれ、映像化できないことの主な要因だった『ジョン・マルコビッチの出演』をゲットするのだった。そしてマルコビッチの穴は最高の状態で完成し、スパイク・ジョーンズとチャーリー・カウフマンは監督・脚本でそれぞれアカデミー賞にノミネート。

しかし二人の次作であるヒューマン・ネイチュアでは、なぜか監督をゴンドリーに譲り、スパイク・ジョーンズはプロデュースにまわる。失敗して一発屋になるのを恐れたのだろうか。

内容は、ショーシャンクの空に(1994)のティム・ロビンス演じる、助成金でモルモットにマナーを教える中年童貞の男小保方と、ノッティングヒルの恋人(1999)の野生児同居人、リス・エヴァンス演じる、きちがいに森で育てられた教育を受けてない、自分を類人猿だと思っていた青年と、ゴンドリーとはローリング・ストーンズのライク・ア・ローリングストーン(1995)カバーでも共作したことのあるパトリシア・アークエット演じる、インテリだがホルモン異常により世界一毛深いメンヘラの、三人の間で起きた殺人事件を、死後の世界を交えながら振り返ってゆく話。インテリギャグ満載。コメディではない体で進むのが面白いのだが、研究室のフランス女子もどきの助手が出張るあたりから、「ふたりの男とひとりの女」(2000)のファレリー兄弟の作風のようなコメディよりに。
結果、それはマルコビッチで感じられるような、好奇心を刺激する哲学要素が少ない、ただのコント色の強いインテリ笑いの映画になってしまい、大赤字になったのだった。

そもそも、スパイク・ジョーンズはアメリカの電波少年、ジャッカス(2000~)の大元のリーダーで、一般人に迷惑をかける捨て身の出演もしているような、笑いに魂を売った人間であって、根本的に笑いに対する考え方が、ゴンドリーとは違ったのではないか。

つまり、ゴンドリーは実はコメディとは相性が悪いのかもしれない。
ただ少なくとも自分にとっては、たまに無性に観たくなる無害で神経をゆるくしてくれる映画である。類人猿が初めて都会の強風のビル街を歩く印象的なシーンは、たまたまロケ地で強風が吹いていただけという、現場のアクシデントを積極的に取り入れる、きっちりとしたスパイク・ジョーンズとは違う柔軟なスタイルは、後々個性的な長所となっていく。

エターナル・サンシャイン(2004)
何度も見返す自分のスタンダードナンバー映画の一つである。カウフマンとスパイク・ジョーンズコンビは、ヒューマン・ネイチュアの次に、マルコビッチの穴からの派生作品と言えるアダプテーション(2002)で、更に心理と創作の内部へと入る道を進む。
一方ゴンドリー、「元彼女の記憶を消したいんだ」という、どうでもいい話をクリエイター友達から聞いた天然パーマは、「恋愛の記憶を消す話」を映画化することをカウフマンに提案。二人で平凡なアイデアを何百倍にも膨らませ、アンチハリウッド脚本を創作。仕事として記憶を消す博士たちと、脳内で消すことを思い留まり、二人で色々な記憶に逃げていく元カップルの冒険と成長という、破天荒なシナリオを作り上げる。カウフマンが扱ってきた「脳」というテーマに、最も普遍的な「恋愛」というテーマをかけ合わせるとどうなるか。監督2作目にしてとんでもない映画が生まれた。構成に多数のサプライズを仕掛けながらも、仕掛けが目立たないほど映画自体が面白すぎるというサプライズになってしまったのだった。
そして二人で、否、なぜかはじめの発言をした友達と三人でアカデミー脚本賞受賞。
この、少なくとも年内最高の脚本という設計図を元に、建設される演技と映像が、誰が監督しても佳作にはなっていたであろう作品を、更に強固に唯一無二なものにした。

まずその演技をさせるキャスティングがすばらしい。
主演のジム・キャリーには徹底的にコメディキャラを殺させて、奥手な男を普段通りに演じさせた。始めはジム・キャリーも現場でコメディ要素を出していたが、その場合はカメラを止めたのでジム・キャリーを怒らせたとのこと。『ジム・キャリーが「こういう演技もできるんですよ」というアピールをしたいだけ』と受け取っているレビューもあるが、完全に演出によるものである。
相手役にケイト・ウィンスレット、タイタニックガールにはアウトサイダーでよーしゃべる本屋勤務のメンヘラを演じさせた。髪色がどんどん変わるのは、過去と現在を表すのに少しでもわかりやすくするためだが、その配慮が、結果映画のアイコンになった。
記憶を消す会社の従業員にキルスティン・ダンスト、ラストの車の前の会話の表情を見るだけで、なぜか毎回涙が出ちまう。ジュマンジ(1995)やインタビュー・ウィズ・ヴァンパイア(1994)にもメイン子役で出ているほど長いキャリアの中でも、最も自由度が高い撮影だったとのこと(2011年のインタビュー)。それは、特に主人公宅で勝手に飲酒しているときに活かされる。ヒロイン以上にメンヘラ役だが、撮影から4年後、アル中と鬱病で入院することになり演技じゃなかったことが発覚。今年のiCloudセレブ自撮りヌード流出事件では、他のセレブが「これは合成」と必死な中、胸の自撮りを2、3枚世に送り出した後、「thank you iCloud(うんこの絵文字)」とツイートして主人公に。
博士トム・ウィルキンソンはイギリスの大物、ミッションインポッシブル4(2011)の長官など。非イケメン従業員マーク・ラファロは当時は無名、後に、エドワード・ノートンが演じたインクレディブル・ハルク(2008)を引き継いで演技力のみでアベンジャーズ(2012)に入る。チャラい従業員イライジャ・ウッドは、ロードオブザリング3部作(2001〜2003)終了直後の出演。この役の強烈なバカ加減で演技派の印象を残したが、ハマりすぎて本当にバカと思われたのか、普通にバカなのか、その後唯一ぱっとせず。

続いて映像である。CGも使用しているが、SFにも関わらずゴンドリーにしかできないアナログな手法が目立つ。
特に『体が子供になって机の下にもぐる主人公と、大人のままの体のヒロイン』が会話するシーン。普通は主人公をブルーバック撮影して合成するだろうが、あえて遠近法で撮っていて、大きな机のセットに190ぐらいあるジム・キャリーが入って遠くからヒロインと会話しており、笑う犬のコント「テリーとドリー」方式で体を小さく見せている。これがまぁまぁ失敗しているが、この失敗加減が、映画を暖かいもの、ドヤ感を消すのに貢献している。Neverまとめでは「完璧主義の映像作家」と題されているが、それは「PVで音と映像がシンクロしている」というだけであり、撮影はわざと荒削りな感じにして、それが作家性を強めている。
構図に関してはアップばかりで、異常なまでに手持ち撮影を使用し、まるでバラエティの撮影ようである。手持ちに関しては、「これは合成ではないですよ」というアピールもあるかもしれないが、そもそも失敗しているので、そのアピールにドヤ感が無い。暗い脳内シーンでは暗い場所で撮ったAVのように、カメラが動いたら照明も動くという、職人がキレることばかり行っている。
CGを使っている箇所で印象に残るのは、博士たちが元彼女との記憶を消す作業時、巻き添えでどんどんエキストラが消される中を二人が逃げてゆくシーン。似たシーンはマルコビッチの穴にもあるが、同じ脚本家の同じシーンでも、監督が違うとこうも違うという、発見もある。
また、予告でも流れる、象の路上パレードを主人公たちが見ているシーンは、前作のアドリブ強風シーンのように、たまたまロケ地近くでパレードをしていたので撮影している。

脚本のカウフマンはエターナルの前に、ハリウッドの中心人物、ジョージ・クルーニーに依頼されたコンフェッション(2002)で唯一の企画ものを執筆。エターナルの後は、脳内ニューヨーク(2008)で初監督・脚本。以降の脚本はポシャってばかりである。

俺のようなファンが多いエターナル・サンシャイン、ゴンドリーは「なぜこのタイプの作品を作り続けないのかと、よく非難される」とのこと。

恋愛睡眠のすすめ(2006)
後述。

TOKYO!~インテリア・デザイン(2008)
自主映画監督の上京物語。日本で撮られたTOKYO!の3作品の中の一篇。スティーブン・セガールの娘で、庵野秀明の実写作品、式日(2000)でヒロインと原作をつとめた藤谷文子が主演、相手役を加瀬亮、当時加瀬バーターの伊藤歩も出演。

新作で出て以来見てなかったので見返そうとしたが、なんかしらんがむかついて見れなかった。知り合いでも何でもないが、ゴンドリーの箱庭の中に加瀬亮とかが居るのがすごい変な気持ちになったのだった。映像・CGはもちろんすばらしい。
ちな、ポラロイドのゴンドリーのCMは日本で撮ってると見せかけて香港。

『箱庭』というのは狭い箱にいかに色々な自分趣味の物を詰めるかというニュアンスだが、レディオヘッドのナイブズアウト(2001)は、まさにその真骨頂である。
そしてその箱庭の中にトム・ヨークが居るのも、なんかしらんが気持ち悪いのであった。知り合いでも何でもないが。

僕らのミライへ逆回転(2008)

レンタルビデオ店のビデオを、店員の友達が電磁波で消してしまい、ロイヤル・テネンバウムズ(2001)の黒人・ダニー・グロヴァー演じる店長に怒られないよう、自分たちでリメイクし、それが話題になり客が殺到。
何とも嫌いな作品。ガチ駄作だと思うが、現代美術館の展示は基本これをテーマにしており、むしろ手作り映画リメイクはゴンドリーが本当にやりたい事の一つのようである。ゴンドリーがトラビスを演じるタクシードライバーリメイクも、2011年に遊びで撮っている。

グリーン・ホーネット(2011)
ダメ二代目新聞社社長と父の使用人・加藤が、素性を隠してヒーローに。経歴の中で一番安心して見れて、世で一番見られているであろう作品。3D版も公開。

昔のテレビドラマリメイクで、元ドラマはかなり有名だったようだ。キル・ビル(2003)でも、ドラマのテーマ曲が使われ、衣装もパロられている。
中国人キャストがメイン(テレビ版ではブルース・リー)に居ることから、少林サッカー(2001)のチャウ・シンチーのハリウッド俳優・監督デビュー作として準備されるも、降板後、なぜかゴンドリーに回った仕事。外国人ということ以外キャラ違いすぎるだろ。チャウ・シンチーは、おそらく主演のセス・ローゲンが脚本・プロデュースにも居ることから、主導権がどっちになるのかイライラで嫌になったと思われる。

セス・ローゲンは北朝鮮を怒らせてソニーをハッキングさせた、金正恩暗殺コメディ、ザ・インタビュー(2014)でも制作・出演、更に共同監督・原案。ザ・インタビューの共同監督のもう一人はグリーン・ホーネットの脚本家。そして、ザ・インタビュー主演のジェームズ・フランコもグリーン・ホーネットに半グレ役でカメオ出演。つまりグリーン・ホーネットは、後にザ・インタビュー製作陣になるおもしろ軍団による映画であり、ゴンドリーは、単に雇われた監督。
この映画でしか見たことない撮り方不明な『分割画面が増殖してゆく長回し』はすごいが、『手作り感』や『荒さ』という作家性は封印して、監督仕事に徹している。制作費100億円の本格的なハリウッドデビュー作となったが、絶賛雲隠れ中のセス・ローゲンとの間に友情も生まれず、賭けに負けてしまったようだ。

ターミネーター2の子役、エドワード・ファーロングが麻薬ラボの頭で出演。ヒロインはマルコビッチでスパイク・ジョーンズらと繋がっているキャメロン・ディアス。なお、赤字ではない。

ウィ・アンド・アイ(2012)

干されたゴンドリーが小さい規模で撮った、ニューヨークの下町の通学バス内での会話をひたすら映す作品。人間観察力もあるぜということをアピールした脚本。ディカプリオとトビー・マグワイア主演の自主映画「あのころ僕らは」(1995)を思い出した。会話の途中でちょくちょく挟まれる、荒くも個性的なイメージショットで個性発揮。完全にプレッシャーから解放された撮影が楽なやーつ。演技未経験者を起用して、ビデオで撮ることでリアルに仕上がった。最もパーソナル(個人的)な映画と宣伝しているが、恋愛睡眠の方がパーソナルだと思われ。

ムード・インディゴ うたかたの日々(2013) 
ボンボンの主人公に彼女ができるが、彼女の肺に蓮のつぼみが入ってしまい『蓮が体内で成長してしまう』という難病にかかる。蓮の成長を妨げるため、彼女の周りに花を置かなければならないということで、花代と薬代のため働き始めるが、病気は回復せず。

原作は1950年代に活躍したボリス・ヴィアンの「日々の泡」。同じ原作の日本版はクロエ(2001)。恋愛睡眠のすすめ以来のフランス映画。いよいよ都落ちか。
物語前半は、今までの集大成とばかりに派手な手作り感を全開で出してきて、すごいけど目が疲れる。だが後半になると、画面の色もどんどんと褪せていき、最後はモノクロ。前半の過剰な楽しさは、後半、観客をより落ち込ませるための仕掛けであった。
ジャズ演奏者でもある原作者が尊敬していたデューク・エリントン楽団のすばらしすぎるジャズ「A列車で行こう」の明るさも、この壮大な前半のフリに使われている。

CGなしの手作りの感覚はステリオグラムのウォーキー・トーキー・マン(2004)の感覚を再使用か。

アクの強すぎる未体験の世界観の中では、おそらく話を紡ぐ気は無く、いかに変わったことをするか、いかに美しいものを見せるかにだけ力が注がれている。これは原作が本国で桃太郎ぐらい有名な話だからだと思う。
トーマス・アルフレッドソン監督のイギリス映画・裏切りのサーカス(2011)も、ヨーロッパでは大ヒットのくせに役者と映像があほかっこいいだけで話が全然わからない。これも、イギリスでは原作が金太郎ぐらい有名な話だから、今更ストーリーを説明する気が無いのだろう。

最強のふたり(2011)の介護人役の黒人芸人、オマール・シーが、ここでも主人公の使用人役で好演。衣装も素敵で、前半を見ただけで青スーツジャケットを買っちまった。一万六千もした。

そして恋愛睡眠のすすめ。特に『主人公は何がしたいのか?』ということについて。

まずはキャスト、主人公ステファンにガエル・ガルシア・ベルナル。メキシコ人のため170ぐらいなのにイケメンスターとしてアモーレス・ペロス(2000)で22歳の時に衝撃的メジャーデビュー。油の乗った現在は政治に没頭してらっしゃる様子。アモーレス・ペロスの監督、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは同郷の同年代であるアルフォンソ・キュアロンの、ゼロ・グラビティ(2013)の成功がよほど悔しかったのか、今年、初のコメディであるバードマン(2014)を監督。かなり高評価で日本公開が待たれる。

ヒロインにシャルロット・ゲンズブール。業界人とフランス大物女優の間の娘で子役出身。自身もフランスの監督と結婚するが、夫の代表作は残念ながら「僕の妻はシャルロット・ゲンズブール」(2001)であって、七光りの七光りという、うらやましすぎる夫を持つ。

歯並びが悪いのか、整っている訳ではないが素敵な顔。

今年ニンフォマニアック(2013・日本は2014)で突然全力ポルノの世界へ。ニンフォマニアックはダンサー・イン・ザ・ダーク(2000)のラース・フォン・トリアー監督の、アンチクライスト(2009)、メランコリア(2011)から続く鬱三部作の締めとして作られたが、この三作ではすべて主役か準主役で出演しており、鬱になった天才監督を引き締めるミューズとして近年再び注目を浴びるようにになった。ビョークやドッグヴィル(2003)のニコール・キッドマンなど、出演女優に基本嫌われる中でもかまってあげる、めっちゃ良い女である。ニンフォマニアックのエンディング曲でジミヘンのHey Joeをカバーしたが、今年一番好きな曲かもしれない。

そして脚本。ゴンドリーは英語がわかりきってないのもあるのか、基本的に脚本は共同で書いており、一人で脚本を書いた作品は、今作と僕らのミライへ逆回転だけになる。今作には起承転結的なものがなく、『小道具フェチの監督が手作りの小道具たちを見せたいがために、小道具に合わせた脚本を書いた』と、思う人も居るだろう。おそらくそれで正解だが、今一度見ると、違うものも見えてくるかもしれない。こないかもしれない。

そしてストーリー全力ネタバレである。

『ステファンスタジオ』という、段ボールで作られた手作りのスタジオで、自分の番組のMCをする主人公ステファン。夢の作り方を料理番組のように説明する。題名からしてこれは夢である。「自分を起こさないように小さな声で、、、父さんだ。元気な姿を見れてうれしい。僕らはコンサートに来てるんだ」大理石のマーブル模様の形に、絵の具が広がってゆくイメージショット「父さんは死んだんだ。ガンに侵されて」。次段落から、始めに、現実か・夢か・妄想かを書き加える。

(現実)スケッチブック片手に、かわいいニット帽でフランスにやってきたメキシコ人青年ステファン。父が死に、離婚した母がオーナーをしているアパートへ入居。その部屋は子供時代に住んでいたようで、子供の頃の発明や、昔集めた廃材(トイレットペーパーの芯、飴のセロハン、ペットボトルキャップ、松ぼっくりなど)が残されている。絵も描いており、幼少期からとにかくクリエイティブなことをしたいと。それで母から、カレンダーの絵柄を書く仕事ができると聞いて、パリへやってきた。

カレンダー会社の従業員は、よーしゃべる下ネタばっかのおっさん、熟女、ナヨナヨした天パ、堅物社長。仕事を教えられるが、それはイラストレーターではなく、写植、アナログ印刷機に、印刷する文字の型を入れる仕事だった。話が違うとテンパり、慰安旅行のスキーに誘われるも断る。
社長にスケッチブックを見せるステファン。ひと月ごとに世界の飛行機事故や地震の悲惨な絵が描かれた、『災害論』と名付けられたカレンダー用のイラスト。「ここは南アメリカじゃないぞ」社長からは一蹴される。

帰宅し、上手く剃れない電気シェーバーを投げ、布団に入るステファン。

(夢)夢での社内風景。明らか作り物の、大きくなった手で仕事をする苦しい顔のステファン。大きな手で下ネタおっさんと天パをはたき、社長室に入ると、熟女と社長が抱き合っていた。「メキシコは南アメリカじゃない!」ポケットから電気シェーバーを出すと、シェーバーから虫のような足が生え、社長に近づき、襲う。シェーバーが顔周りを通ると、逆に大量にヒゲが生える。「出てけ」ステファンの指示通り、社長は窓から飛び降り、ペーパークラフトの街でヒゲボーボーのホームレスになる。熟女とはコピー機の左右の動きを使ってセックス。自分も窓から飛び降りると、無重力になっており、空を飛び回る。

(現実)目覚ましと電話が鳴る。母からの電話であった。

(現実と妄想)妄想のステファンスタジオと現実が入り乱れながら電話「コケにしてるのか?どこがクリエイティブな仕事だよ。母さんは嘘をついたんだ。僕をパリに呼ぶために」。妄想側に母が出てきて、子供の頃の両親を回想しつつ二度寝。

(現実)寝起きで壁が振動。隣に入居してきた住人たちがロフトを取り付けるための工事をしていた。
窓の外には隣室の入居者になるヒロイン、ステファニー。正面から来た通行人とぶつかりそうになり、よけ合っている。

(夢)ステファンスタジオ、「脳のおもしろい現象。パラレルシンクロナイズドランダムネス。数学理論では、二人は永遠に避け続けるんだ」講義するステファン。

(現実)共用階段に出ると、引っ越し屋が運んでいるピアノが落下、ステファンは手を痛める。
ステファニー宅でステファニーの友達、ゾーイに手当てをしてもらう「ステファンとステファニー、まるで双子みたいね。彼女フリーよ」。発明品、実際にはありえない3Dメガネを紹介するステファン「発明家になりたいんだ」。ステファニーとゾーイは『アリストテレス』という音楽レーベルのクリエイティブディレクターであると言われる。「アリとタートルです?」。

下ネタおっさんとベンチで昼休憩するステファン「こんな最低な仕事初めてだ」「楽しいこともあるからそうぼやくな」。仲良くなり恋愛相談するステファン「僕の隣に住んでる子の友達がかわいい。多分、友達じゃなく、隣の子が僕に気がある。いつもうまくいかない」「じゃぁパリに居ろよ」。

家に帰るとエントランスでステファニーとかち合う。「ゾーイに会いにきた?」なぜか隣人ステファニーに、隣に住んでいることを言い出せないステファン。そのままステファニー宅に訪問。

部屋は手芸の人形などであふれている。「この子はゴールデン・ザ・ポニーボーイ。お店で見つけて衝動買いしたの。一生手放さない」。ステファンの手当てをするステファニー。手をあわせ、「こうすると、手の感覚が無くなる」と、体の錯覚を使って遊ぶふたり。めちゃくちゃいい感じになる。「手が大きいね、ポコチンも大きいの?」いきなり意図不明なシモを放り込むステファン。非常にコミュニケーション力の無い男である。
制作途中の船の手芸を出すステファニー。この船をどう改造していこうと話し、写真を使って船のコマ撮りアニメを撮ることを目標にする。
水はどうやって表現しようと、水道をひねると、蛇口からはセロファンが出てくる「セロファン!」「母が飴の包みを集めてるから、そのセロファンを使おう、ロシアのアニメみたいに。ペーパークラフトが趣味だけど、いつも完成しない」明らか自分のことであるがなぜか母のせいにするステファン。

綿を放り投げるステファニー「雲よ」。ピアノを鳴らすステファン「ダメだ。もう一度。コードが違う」。改めて綿を放ると、今度は綿が空中で雲のように止まる「これだ!共振周波数にはまるように、タイミングよく弾けばいいんだ」。3Dメガネの発明のように、実際にはありえない現象が起こる世界観の映画である。

(現実と妄想)部屋の風呂でぼーっとしていると、熟女に痴女られる。睡眠に導入されるカットはなく、ステファンの妄想である「やめてくれ。罪の意識に耐えられない」。浴槽の外は社長室、窓の外には『アリとタートル社』の看板が回っている。ステファニーに手紙を書くステファン、『僕の隣の部屋に住む君へ。君に嘘をついてしまった。とても後悔している。僕はただの隣人で嘘つき。ところでゾーイの電話番号は?』裸で部屋から出て、手紙を隣室のドアの下に入れる。
(現実)浴槽で現実に戻るステファン。いつの間にか寝ていた。浴槽の脇には自分の濡れた足跡が。辿ると、隣の部屋まで続いている。妄想だけでなく、夢遊病のように実際にステファニー宅に手紙を差し入れていた。「嘘だろ?まずい」ハンガーでドアの下から手紙を出すステファン。今度は詩的なわかりにくい手紙をタイプ。
(妄想)洞窟で、大きなタイプライターを虫の足が弾いている。

(現実)会社では「これからは遅刻も欠勤と見なすべきだ」とあきれられている。

(夢)『アリとタートル社』のある街を浮遊しているステファン。窓から会社に入る「二人は音楽ディレクターなんかじゃなかったんだ」「仕事よ」「夢だから仕事なんてしなくてもいいんだ。君たちは僕の脳内現象にすぎないんだ」。

(現実)個人経営の画材屋で働くステファニーとゾーイ。実はステファニーは昨晩、夜中に目が覚めるとドアに気配があり、裸のステファンが共用廊下に居て、手紙を入れて隣室に戻るのをドアスコープから目撃、手紙を読んで、読んでないフリをして戻していた。

ステファニー宅でタウンページを使い、隣室ステファンの番号を調べて、部屋に呼ぶ。「急げば15分で行ける」男に嘘をつかせておちょくる女二人。テレパシーの発明品をステファン宅で試すステファン、ステファニー、ゾーイ。

三人で騒がしい立ち飲み屋に行くと、ちょうど同僚の下ネタおじさんが「ゾーイ?あんたかわいいと噂になってるよ」。下ネタおじさんと、彼氏ありだが奔放なゾーイはいい感じ。ステファニーのために曲を作ったと楽譜を渡すステファン。おじさんから「彼女は気があるんだろ?弄ぶな」と言われるも「ただの隣人。彼女はすごく良い人だけど、うちの父さんに似てる」とステファン。酔いながらバンギャみたいな女と踊ってキスする。
自宅の壊れたピアノで楽譜を弾くステファニー。ステファンもバンギャは抱けず、自室でステファニーの名を呼びながら寝ている。

(夢)「お前はクビだ」と、同僚に抱えられて洞窟から連れ出される夢を見るステファン。
(現実)目覚めるが、二度寝するステファン。

(妄想)今度のステファンスタジオは、飯を食いながら考え事をしているステファンの見る脳内世界「今日のテーマは50歳からの恋愛。ゲストを二人お迎えしてます」。
(現実と妄想)母の新しい彼氏と晩飯「あなた今日会社を休んだそうね」「夢で一日中働いた」「6つのころから夢と現実の区別がつかないの。夢では手が大きくなるのよね?」夢のトリビアを披露する新しい彼氏「レム睡眠とは急速眼球運動。夢と目玉は連動している。夢で歩けば、目玉も歩く」。

(現実)目が動くと鳴る仕組みの目覚まし時計を作ってセットし、寝るステファン「目玉を動かせば解放されるんだ。夢の奴隷から」。
(夢)もちろん逆効果。相変わらず会社の同僚をおどす夢、窓から見えるペーパークラフトの山が噴火して、月が割れる「やめてくれ。ここは君の世界。僕たちは何でもする」「もう僕を奴隷みたいに働かせるな」破壊された町を念力で作り直すステファン「あなたの新世界を讃えます」「夢の中でステファニーに会いたいんだ」「ステファンさん、ご著書『僕はただの隣人で嘘つき。ところでゾーイの電話番号は?』が大ヒット。絵画、彫刻、建築、執筆。最近ではステファン美術館や財団を設立。成功の秘訣は何です?」「僕の作品がウケるのは心から生まれたから」「ステファニーのことね。実はサプライズ、彼女への歌」。同僚と着ぐるみのバンドを組みステファニーへ送る歌を演奏。ライブ映像が流れるステ
ファニー宅の段ボール製テレビ。「つまらない」ステファニーはチャンネルを回すもすべて社長室の演奏シーン。「もう疲れたから目を覚ますよ」。

(現実)夢の会社のドアを出ると、現実の玄関ドアにつながっていて共用廊下に。ステファニーとかちあう「ちょうど君に会いたいと思ったんだ。結婚してくれ。友達に紹介する」ドアを開けるも、同僚は居ない。「私は独身主義だし、あなたとは合わないと思う。気は確かなの?」「勘違いしてた。ここが会社で、仕事中に居眠りしたかと思ってたんだ」「大丈夫?本気じゃないのね?」「でも君が好きみたいだ」「私、恋人を作る気はないの」「ひどい人だな」「子供みたいなまねはやめてちょうだい」。
会社。失恋したと悟られて天パと熟女に慰められるステファン「みんな放っておいてくれ。一度にごちゃごちゃ言われると頭がおかしくなる。まるで自分が統合失、、、」現像室に逃げるステファン。追いかける下ネタおじさん「統合失調症って言いたかったんだろ?遅刻さえしなけりゃあいつらもからかわない」。

(夢)ステファニーの作った多数の手芸が置かれている洞窟、ベッドでまどろむステファニー。「ステファニー、この赤い毛布も展示会に出して良い?」「もちろんよ」「手を握って?眠れない」。

(現実)セロファンをステファニー宅に持って行くステファン。二人でアニメーションの背景を作る「もう少し左。でたらめにするのって難しいのよ。油断するとすぐに秩序正しくなっちゃう」。
新しい発明品、一秒タイムマシンを見せるステファン。本当に一秒間過去や未来に移動できる「こんなものもらえない。理由が無いから」「かわいいからじゃ、だめ?」。

(夢)布で作られたスキー場、ステファニーとリフトに乗っている。後ろのリフトには同僚。雪山の頂上でステファンに何度も小鳥キスするステファニー。雪山の地面が割れて現実へ。最もきれいに撮られている。

(現実)目覚めると足が冷凍庫に入っている。お湯で足をふやかし、ベランダ越しにステファニー宅に忍び込むステファン。人形、ゴールデン・ザ・ポニーボーイを持ち帰り、自宅で修理する。
(夢)気づくとステファンスタジオ。ステファンとステファニーが一緒に、楽しく人形を修理している。二人で『ステファニーが帰宅して、ポニーを見つけて喜ぶドラマ』を撮影する。「カット、ダメじゃないか、僕を褒め称えないと。もういいよ、どうせ恋に発展しない」「試す価値はあるんじゃない?」「今度会ったときにキスするとか?」「試してみて」。
(現実)修理が終わり、ステファニーの部屋にゴールデン・ザ・ポニーボーイを戻すステファン。そこにステファニーが帰ってくる「何してるの?」「本当にごめん」「信じられない。不法侵入よ。変態。さよなら」。

(現実か夢か不明)ステファンが寝ているベッドにステファニーから電話が「本当にありがとう、ポニーを直してくれて」ポニーは床に置くだけで走り回る。「ポニーの名前はあなたを見て決めたの。どうやって直したの?」「カオス理論を応用した。生命の単純化だ」「あなたの隣に住めてうれしい」「僕らが70になったら結婚して。それなら損はしない」「いいわ」「もうしばらく僕と話してくれる?きっと眠りながら話せると思うんだよ。今暗い穴に落ちて行ってる」「人が穴に落ちる瞬間は決して見られないわ。なぜなら境界を超えようとする人の姿はだんだん動きが鈍くなって、ある地点で全く動かなくなる。そこを超える瞬間は赤くなるだけ」「超えたよ。超えた」ステファンの口は動いてないが、ステファ
ニーの電話口ではステファンの声が聞こえる。
(夢)「そこで何が見える?」。草原で電話するステファン。草原には馬、川、一秒タイムマシン。
(現実)寝ているステファン「ステファン?眠ったの?」。

(現実か妄想か不明)立ち飲み屋でステファニーを母に紹介するステファン。「本当に優しそうな人ね、カレンダーはどう?」「素敵です」。ステファンの『災害論』が会社の大ヒット商品となり、パーティを開いている「被害者に感謝を捧げます。彼らが居なければ作品は生まれなかった」。
ステファニーの手を握ろうとするも拒否られるステファン。その場で会った男と楽しそうに話すステファニー。
(妄想)それをステファンスタジオで見るステファン。スタジオにはステファニーも居る「ごめんなさい。怒った?」。
(現実)ビールサーバーからビールを直飲みするステファン。

(夢)昼間の安ホテルで揉めているステファンとステファニー、劇中劇風。ステファニーはフランス女優のように金髪になっている。「彼女は僕の心を引き裂いた。僕は捨てられる。僕が安っぽいドラッグの売人だから。捨てられるために売人になったのだ。警察が来た」窓の外では段ボールのパトカーから母の彼氏演じる警察が出てくる。部屋に迫る警察。窓から逃げるステファン。路駐している段ボールの車を盗み、逃げるが、事故る。車からホテルの窓を見ると、新しい男とステファニーが死に行くステファンを見下ろしている「彼は僕とは正反対。包容力がある。彼女は夢中」。
(現実か妄想か不明)ベッドから落ちるステファン。介抱するステファニー。「私たちきっとうまくいく。もう私の愛を疑わないで。電話して」。

(現実)目覚めるステファン。パリの街を歩き、休日の下ネタおじさんに会いに行く。「ひどいよ。僕が好きになったとたん冷たくなった。寂しそうな彼女を救いたかったのに」「傷つきたくないから、人を傷つけるのかもよ」「僕が彼女を好きなのは、手でモノを作るからだ。父さんに相談できたらな」テレビではデモのニュース。「捨てに行こう。テレビは人を洗脳する」テレビを抱えてパリの街を歩き、橋から投げる下ネタおじさん。近所のばばあに「川にゴミを捨てちゃダメじゃない」と怒られる。最も印象的なシーン。

朝、部屋を出るステファン、共用廊下でステファニーが待っている「もう私と友達でいたくないのね?」「その通りだよ。どっちかが絶交すれば関係はそこまでだ」「それじゃデートっていうことで話し合いましょ」「どうせ他に恋人を作るつもりなんだろ。船はどうしたんだ?君は何事においても中途半端だ。ロフトも未完成だし」「私をコントロールする気なの?理解できない。これがゾーイの電話番号よ。あの手紙覚えてる?」「すまない。泣かないで。ごめん」。(この階段の上と下で話すカットは普通に見えて構図の本にもとり上げられているが、普通すぎて素人は気付かない。もちろん俺も気付かない)

会社、下ネタおじさん「いい加減にしろ。俺はお前の仕事をやってるんだぞ。お前は事実上クビだ。お袋さんもかばえない」「聞いてくれよ。彼女は僕が夢で書いた手紙を、なぜかいつの間にか読んでた。これは僕らの脳が何か複雑な方法でループ状に繋がってるからだ。僕と彼女は同じ方向に進化してるんだ。パラレルシンクロナイズドランダムネス。すごいことだろ。彼女にデートに誘われた。20分後にバーで会う。じゃぁね」「彼女と付き合うな。頭がいかれるぞ。とにかく社長と会え」「頼む、見逃してくれ、一度だけ」「じゃあもう一度だけ見逃してやる。だが最低でもキスはしろ。それができなきゃ絶交だからな」。走ってステファニーの元に向かうステファン。バーで待っているステファニー。

(妄想)「ステファニーと僕は、友達以上の関係にある」ステファンスタジオで同僚や母が過去の映像を使って、友達以上である事をプレゼンする「ちゃんとした証拠もあるぞ。ほら見て、僕の唇から、1センチ以内の場所にキスした。彼女が僕を求めてる確かな証拠だ。僕が動かなきゃ、唇にしてた」。
(現実)走るステファン。
(妄想)道でホームレスにぶつかりそうになる。よく見ると過去に夢でホームレスになった社長である。「お前への興味はとっくに無い。次の男を探してる。離れた心は二度と戻らない」バーには行かず道を引き返すステファン。バーではなく部屋で待っている妄想のステファニー。
(現実)ステファニー宅のドアを叩く。「居るのはわかってる。僕のことを忘れたのか?」ドアに体当たりするステファン。
あきらめてバーから出るステファニー。頭から血を流して共用廊下で泣くステファン。

(夢)ステファンスタジオのステファニーとステファン。「言ってよ。言ってくれなきゃダメ」「結婚しよう」「イエス」。

(現実)母に介抱してもらうステファン。「母さん、あのとき、父さんと一緒に出て行ってごめん」「いいのよ、空港まで行くわ」「メキシコに着いたら電話するから」完全に都落ちステファン。「彼女と会って話して」「話したくない」「さよならも言わずに居なくなるつもり?」荷物を置くステファン「いつまで経っても母さんの言いなりで情けないよ」ステファニー宅のドアをノックする。

出てくるメガネのステファニー「どうしたの?」「ここを出てく」「そうかと思ってた。まだ未解決な問題があるわよね。頭は?」「大丈夫。普通じゃないけど」「そうでしょうね。一生治らない」「だから君に嫌われた」「フランス語は?」「唯一言えるのは『君のオッパイで勃起する』」ステファンの口を押さえるステファニー。ステファニーの口のタバコを窓から投げ捨てるステファン「やめて、人が燃えちゃうわ」。アパートの下では通行人が火だるまに。「早く助けないと」蛇口からセロファンを出して洗面器に貯めるステファニー、窓から落とすと、通行人に水がかかって怒られる「アナーキー・イン・ザ・セロファン!」突然すごいDQNぶりのステファニー。
「僕が死んだら泣く?」最後だからか、ステファン暴走「メガネのつるを触って。ペニスを左手で触ったみたいだろ?歯を直す気はないの?僕が君と結婚する40年後に備えよう。でも歯はいいや。フェラの時に役立つ。一週間以上同じジーンズを履いて、汚れると君に近づいた気がするんだ」最低なことばかり言うステファン。
「なんて答えればいいの?」「別に何も。ロン毛のサーファーの新しい彼氏が居るんだろ」「彼氏は居ないわ。なんでいつも現実をねじ曲げるの?さぁ、お願いだから行ってちょうだい」「ロフト完成したんだ?船と一緒で完成しないと思ってた」ロフトに登るステファン「頑丈?カップルなら?」「やめてよ。お母さんを呼ぶわよ」「やめてくれ!」40年後に70になるので30歳の男女。
「私が何をした?私に何して欲しいのよ?!」「髪の毛なでてくれる?」「嫌よ。何で私?」「他のやつらはつまらない。君は特別だ。でも僕が嫌いなんだ」ベッドの上では船が完成している。一秒タイムマシンが発動、一秒後には寝ているステファン。呼びかけても反応が無いので、ロフトに上がり、寝ているステファンの髪をなでるステファニー。
(夢)馬に二人乗りして草原を走るステファンとステファニー。馬はゴールデン・ザ・ポニーボーイになる。ポニーボーイをフェルトの船に飛び乗らせ、一匹と二人でセロファンの川を渡る二人。

以上である。めちゃくちゃバッドエンドである。何も解決せず、他人に迷惑かけまくって、花の都から無法地帯へ帰国するだけの話である。

ストーリーを、主人公とヒロインの現実の恋愛にだけしぼると、
①ヒロインと出会うが、友人の方がタイプ。
②ヒロインといい感じになるも下ネタばかり言う。
③二人でモノ作りを始める。
④好かれているという勘違いから、ヒロインの方を好きになる。
⑤ラブレターを書くが、素直に書かない。回収するも、ヒロインは既読。
⑥立ち飲み屋で、ヒロインの前でバンギャと踊る。
⑦夢の勢いで告るもフラれる。
⑧不法侵入してばれる。
⑨ヒロインが男と話しているのを見て飲んだくれる。
⑩ヒロインは仲直りしようと提案するも拒否。しかし手紙を読んでいたことから超現実なものを感じ、一回会社へ行ってからバーで話し合うことに。
⑪ヒロインはバーで待つも、妄想のホームレスに阻まれた主人公はバーへ行くのをあきらめて、ヒロイン宅集合だったと自分を洗脳。約束をすっぽかす。
⑫最後の対面、最低の会話をして別れる。

この男かなり痛かった。タクシードライバーのトラビスより痛かった。ヒューマン・ネイチュアやエターナル・サンシャインでは、メンヘラもしくはバカキャラな女が多いので、その反動から、今作は『バカな男と大人の女』という構図になったのかもしれない。

以前今作を見たとき、主人公は何がしたいのか?全く物語の『ベクトル・方向性』が理解できず、単にゴンドリーが脚本がど下手なだけに思えた。そしてそういったレビューもよく、ネットで見かける。
主人公は「ヒロインに好かれたい」し「アーティストとして売れたい」はずなのに、女には嫌われることばかり言うし、職場の小さいことや女の言動に傷ついてばかりで、アーティスト的なことはしない。
妄想ばかりして、それを妄想と気付いてないから、妄想を現実に変えようという動きが無いので、話が進まない。『災害論』が売れたのも妄想だろう。
前二作を天才脚本家・チャーリー・カウフマンが書いたので、期待値が上がりすぎてつまらなく見えてしまったのもあるだろう。だが、今作はベクトルやストーリーを重視した映画ではない。それこそ、話より『見せ方』を重視したフランス映画である。小説では現せない、現してもつまらない、映像寄りの映画である。

再度見て思ったのが、これはオシャレに撮った『病気の紹介ビデオ』ではないかと。そして恥ずかしながら「これは一部俺だ!」と思ってしまったのであった。

主人公が『病気にかかっている』最も根拠となるセリフは、同僚の「統合失調症って言いたかったんだろ」である。その他、母親の「6つの頃から夢と現実の区別がつかないの」や、手紙が既読だったことから「僕らの脳は何か複雑な方法で、ループ状に繋がっている」と主人公が同僚に言ってしまう極端な考え、知るシーンは無いが病気を知っているらしきヒロインから「一生治らない」と言われるセリフなどである。

それらのセリフ通り、6歳の頃から『統合失調症』を抱えているが通院しておらず、病的KYの『アスペルガー症候群(=統合失調型パーソナリティ障害・以上以下全てWikipedia)』も入っていると思われる。

なぜ嫌われる下ネタばかり言うのか、それは『下ネタ アスペルガー症候群』で検索したのを読むとなんとなく掴めた。幼少期は下ネタがウケる。その刷り込みが大人になっても消えずに、相手のリアクションを考えずに下ネタばかり言ってしまう事もあるようだ。
また、主人公が持つ、仲良くなりすぎると仲良くなるのを避けようとする変な感覚、正直腹立たしい事にこれにめっちゃ共感できるのだが、これは検索しても病名など出てこない。ただ「こういう私は病気でしょうか?」という知恵袋的なページはある。

『統合失調症』と言うと幻聴・妄想・支離滅裂な会話・スパイに狙われている!というやつであるが、主人公はそこまでではなく、その中の『妄想性障害 恋愛妄想』であると思われる。
有名なのは先月逮捕された眞鍋かをりがストーカーされた事件、そして有吉のミザリーである。こういうのはスターストーカーで、一般人相手の話ではないが、ちょっと異性と話しただけ、目が合っただけなのに、相手と友達以上恋人未満ぐらいの関係にあると思い込み、ありもしない会話を捏造する妄想もあるようである。
主人公はありのままノーメイクで愛されたい、愛されると思っていた。だが愛してくんないので、自分を洗脳しては、好きとは別の感情が働いて、ヒロインの気持ちを考えずストーカー的に暴走したり、下ネタおじさんのセリフにもあるように、傷つきたくないから傷つけたりしていたと。

それ以上病気のことは全くわからないが、とりあえず主人公をカテゴリーに入れることで安心したいのである。

思い起こせば自分のツイッターで、若干そのケのある人が居て、その人は自分なんかよりも大分頭がいいと思うし、オシャレで男前で才能もあると思うが、俺のおもしろエピソードツイートに引っ張られた、明らかな嘘の、女との会話再現ツイートがあった。その嘘に気付いてからは、これまでの怪しいツイートはほとんど嘘なんじゃないかと。つまり誰でも、この症状が出てしまうと。
ただ、その人はけっこう長い期間小保方を信じていたので、ちょっとおかしいところはあるかもしれない。そして、俺が書いた元ツイートも『そういえばけっこう話盛っていた』というブーメランも返ってきた。

ゴンドリーの今作へのインタビューを載せたサイトがあるので、引用する。

「始まりは自分の夢。自分の夢は仕事のインスピレーションになっている。夢が現実だと錯覚してしまうこともある。そんな体験をステファンのキャラクター作りに活かした。実は今まで手がけてきたPVの多くは、自分の夢を映像化したもの。自分の実際の恋愛体験と、自分の夢の要素を混ぜ合わせた」
「ガエルを起用したのは、ドジだったり、涙を流したり、様々な顔があるから。問題は、ガエルを起用することで、『ミシェルは自分をガエルのようだと思っているんじゃないか?』と噂されるのではないかということ。ガエルは一緒に歩いていても、女性たちの視線が彼に釘付けになる。彼の魅力をあまり出さないようにしなければいけなかった」
「彼が母国語のスペイン語でなく、英語とフランス語で話すことによって、異国人的な雰囲気を作れるから起用した。私がニューヨークに住み始めたころ、ある女性と映画を見に行くことになったときに彼女が『デート』という言葉を使ったが、私が思っていたデートではなく、『日付』という意味のデートだった。言葉の壁は時に誤解を生むし、それによって関係が強くなることもある」

ゴンドリーはフランスからニューヨークにやってきた青年だったが、今作では逆転させて、主人公はフランスにやってきた。同じ状況を自分のホーム作りたかったのだろう。
そして主人公ガエルじゃなくて、ゴンドリーみたいな顔のヤツだったら誰が見るねんと心配した。

『災害論』は本当にヒットしたのか?ステファニーとの会話はどこまで妄想なのか?
この映画を愛せる人は、そういう虚実不明なところも『余韻』として残せるだろうが、ほとんどの人は「脚本下手か!」という印象で終了だろう。
俺も胸を張ってオススメする訳では無い。これを見るならエターナル・サンシャインを見た方がいい。
今作は「心の病になりかけている無自覚な人、こんな人にならないように気をつけましょうね」という絞られたターゲットにだけ向けて、作られているのかもしれない。

ヒロインのシャルロット・ゲンズブールは、前述の通りニンフォマニアックで主演を務めている。アメリカの雑誌エンターテイメントウィークリーは、今年のワースト映画にニンフォマニアックを選んだが、ニンフォマニアックでのシャルロットは、俺の心に今年一番重い漬物石を置いた。ヤリマンシャルロットと男に興味ないシャルロット、どちらとも付き合いたい。俺のこと好きなんだろ?

2014年7月28日月曜日

アンダー・ザ・スキン(2013)

しまった放置していた。

映画評論家の町山さんがネタバレありの有料ポッドキャスト(https://tomomachi.stores.jp/#!/)を始めて、それで知った「アンダー・ザ・スキン」はスカーレット・ヨハンソン主演だが、日本で公開のメドが立っていない。
先日、奇跡的に夢の中でこの作品を見ることができたので、前半までの詳細と感想を書いていく。


なにぶん情報が無い。TSP21という、聞いたことも無いニュースサイトからの引用。

ストーリー
エイリアンに身体を乗っ取られた美人のローラは車を走らせて獲物となる男を探し、妖艶な魅力で誘惑して同乗させ、捕食する。

以上である。
この「スピーシーズ 種の起源」(1995)丸出しのストーリー、本国では高評価らしい。
主演の、世界一のセクシー体型とも言われるスカヨハが全裸になったことにより、注目&売り上げが高まったようだ。なぜ日本公開が決まらないのか、それは明らか撮影・演出手法、つまりストーリーの語り口にある。話の系統は似ていても、ちゃんとした娯楽大作として制作しているスピーシーズとは間逆の、見ている人に説明しない、非常にわかりにくい低予算映画である。
 

スピーシーズ 種の起源は、B級の中でもかなりA級よりな顔で映画史に残っているエッチなSFアクションである。美人の身体に入り込んでいる宇宙人が男を逆ナンして、中出ししてもらって種を繁殖させるという、おもしろさとエロさをこれほどまでシンプルに融合させるか、という設定である。彼女の暴走を阻止しようとするのは、即席で組まされた便利屋・超能力者・学者たちのおっさんおばさん4人組。このストーリーにわざわざ、中年の恋愛話を入れようとするから、B級化に歯止めが止まらない。なのに設定の良さからか、無残にもシリーズ化までされてるんである。
 
そんな鉄板設定をシンプルに、スター1人を使ってまとめた本作。
まずは、そのスターと監督である。

スカーレット・ヨハンソン
10年ほど彼氏が居ないようなほとんどの人間を見下すようなオシャレなようなブスでもないような30代女子、を多数生み出すきっかけとなった戦犯映画「ゴーストワールド」(2001)のビジュアル担当として、高校時代に世に出たスカヨハ。84年生まれ。そのままの勢いでロスト・イン・トランスレーション(2003)でサブカル女コースに乗り、ゴーストワールドの主役だったソーラ・バーチに打って変わって前に出たが、抜擢された大作アイランド(2005)がユアン・マクレガーを巻き込みながら映画会社ドリームワークスを破綻させる程事故った為、はい結局はサブカル、となり、これで頭打ちかと思われた。


だが26歳にして、突然アイアンマン2(2010)にて、秘書と思いきやめっちゃ武闘派スパイである、ブラック・ウィドウという当たり役をゲット。今までこういう役が多かった昔のアンジェリーナ・ジョリーとは違う角度の、女ヒーローとして正式にブレイク。
包容力が高いのだろうか、その後アベンジャーズ(2012)のメンバーになったばかりか、キャプテン・アメリカ2(2014)にも同じ役で出演。LUCY(2014)でもアクション女優として、レオン(1994)のリュック・ベッソンに最大のヒットをもたらした。

アクションを主軸にして低予算映画にも出演。ドン・ジョン(2013)とかいう、ジョセフ・ゴードン=レヴィットへの、皆の幻想をぶっこわしてくれた糞にもヒロインとして出演。
そして、公開中のher/世界でひとつの彼女(2013)にも、携帯の音声・サマンサ役でアフレコ出演し、ローマ映画祭にて、声だけで最優秀女優賞獲得。この役は、始めにキャスティングされて現場にも来ていて役名にも採用されていた女優、サマンサ・モートンで録音していたものの、全てお蔵入りさせて、わざわざスカヨハで録り直すというタブーを犯してまで起用されている。そんな小悪魔agehaである。
バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985)も似たように、途中までマーティはマイケル・J・フォックスではなく別の役者だったが、明るい人がいいからと、金を払って降りてもらったらしい。元のherにも払ったのだろうか。

また、今作でハダカ初披露とのことだが、2011年、元夫に送った自撮り写メがハッキング流出され、鏡越し背後フルショット全裸写メと、普通にやらしい顔した上半身裸写メ、二枚が既に無料で披露されてしまっていた。そして、えっ普通にそんなことする娘なんだ、という意味でも衝撃を与えた。



ジョナサン・グレイザー
監督。スカヨハとはオファー前から友達だったようだ。誰もが少しは見たことがある、ジャミロクワイのヴァーチァル・インサニティという曲の、PV監督である。日本では、別の映像畑出身と言うとカットが多かったり、色彩が派手だったりする印象だが、そんな中島蜷川連中とは間逆の、暗いことが美しいじゃんスタイルの監督である。ただ、これを正義と言い切れるようになったのは、エイリアン3(1992)でそれを押し通した結果、駄々すべったけどやりぬいたデビッド・フィンチャーの苦しみがあってこそである。


映画監督としては二作目。一作目、記憶の棘(2004)は、ニコール・キッドマン主演のショタ風味な大人ミステリー。夫が死んで10年後、夫の生まれ変わりと言い張る男子(10)が現れるが、本当に生まれ変わりなのか、この児童を愛していいのかを1時間40分かけて暗い画面でじっくり描写。最後の方の、見ている人を混乱させる、思わせぶりの連続をサクサク繋いで終わる描き方はすごい。結果赤字。
 
ストーリーの前半
なぜか今作も一作目と同じく1時間40分(100分)であるので、中間の50分までを書いていく。この映画、めちゃくそな割に、きちんとハリウッド三幕構成に従い、ミッドポイント(100分の場合50分時点)で、衝撃的な展開、ストーリーを反転させる事件、を入れているのである。三幕構成とは、日本で言う起承転結を、4幕でなく3幕(区切り方は1:2:1)にしたもので、その区切り方に従って脚本を書けば、一番見やすいとされているもの。アウトサイダーな顔しながら丁寧にも、これに基づいて構成してるんである。タイタニックでのミッドポイントは激突シーンである。
三幕構成については、いちお自分はシド・フィールドの本も読んだが、ウィキペディアで読んでも構わないのである。
 

オープニングはイメージショット。宇宙と片目の超アップから、映画は始まる。
 
田舎の夜道を走るバイク。道の端に止まったライダーの男は、なぜか川から女の子を担いで出てきて、小型トラックの荷台に入れる。トラック内は真っ白の空間になっており、その中でスカヨハは女の服を一式パクる。
 
早朝、ぼろいビルから出てトラックに乗るスカヨハ。ビルの上にはよー見るとUFOが飛んでいる。バイクを走らせるライダーとトラックを運転するスカヨハ。ライダーとスカヨハは、会話はしないが、タッグを組んでいるような感じ。

でかいショッピングモールで化粧品や服を買い足すスカヨハ。(モールの客は、カメラをちょくちょく見ているため、エキストラではない。ゲリラ撮影しているようである。)
 
街を巡回しながら、いろんな一人歩きしている男を観察するスカヨハ。車を止めて、若い男に車内から声をかける。「高速はどう行けばえん?」「えっとまっすぐ行って、信号を右折して、その後左折して、説明しづらい」「急いでるの?」「いいや」「仕事?」「人と会う」「そう、ありがとう」
また別の男に声かけるスカヨハ。「郵便局はどう行けば?」「郵便局?」「そう。どっからきたの?」「俺?アルバニア」「家族と一緒?」「そうだ。郵便局は、、、」
別の男。「すみません。迷ったんだけど、高速はどう行くの?」「この道を、、、」「あなた歩き?」「そうだ」「歩いてどこ行くの?」「家だけど」「家族の元へ帰るの?」「一人暮らしだけど」「どっから来たの?」「役場」「働いてるの?」「いや、自営業だけど」「送ってあげようか?」乗り込む男。「自営何してるの?」と、会話していくも、時間経過した車内で、男は居なくなっている。(説明シーンなのに、説明し終わる前に次のシーンへ行って、わかりづらくしている。)
治安悪そうな道で別の男。「この道をまっすぐ行って」「このタトゥー何?」「名前だよ」「名前は何?」「アンディだけど」画面外から甲高い女の声「アンディ!」逃げるように車を走らせるスカヨハ。
別の男が既に乗り込んでいる。「ここは治安悪いから声かけちゃダメだよ」「あーた彼女居ないの?」「居ないよ」「男前なのに?私はキレイ?」「もちろん」「よかった」
一軒家のドアを開けるスカヨハ。ラッキーラッキーと笑顔で入っていく男。声優のアイコの誕生である。
 
室内に入ると、またトラックの中のように、今度は全て真っ黒の空間になる。(この、一昔前みたいな、いかにもセットでやってます的な撮り方も、音楽・照明・撮影技術がめっちゃスタイリッシュなおかげで、ダサく感じないのである。)
歩きながら一枚ずつ脱いでいくスカヨハ。そのケツを眺めながら脱いでいく男。(ジャケットの下にサッカーのユニフォームを着ているので、ようやく、ここイギリスなんだ、とわかる。)
最後の一枚も脱ぐ男。普通にぼっきしたちんこモザなしが映る。その刹那、足元がタバコのタールのようになっていて、どんどん足元から床へはまっていく男。ギャーギャー驚く様子もなく、そのままタールに飲み込まれる。スカヨハは何事もなかったように引き返し、服を着ながらタールの上を歩く。(この、変なリアクションしない感じが、よりわかりづらくしている。)
 
まーた夜道を巡回しているスカヨハ。時間経過して昼の海へ。(ちなみに海に変わるところで20分。第一幕の終盤のこのシーンで第一ターニングポイントが訪れるという、定石の時間配分をまた使ってるんである。)
 
海には、遠くに一組の家族・旦那、嫁、赤ちゃん。そして一人で海から上がってくるウェットスーツ中年。
「俺のタオルを見張っててくれてたのか?」「いや、サーフィンどこですりゃいーか聞きたくて」「俺サーファーじゃねーし。テント張って本読んだり泳いだりしとるんよ」「どこから来たの?」「チェコ」「何でスコットランドに?」「逃げたくて。ここは何もないから」って話してると女の悲鳴。離れた場所で家族の嫁が溺れている。助けようと更におぼれかけている夫も居る。ウェットスーツは二人を助けようとダッシュ。タオルを捨てて海に入り、夫だけ何とか浜に上げるも、夫はウェットの善意無視でまた海へ。体力使いすぎて動けないウェット。静かな修羅場に不穏な音楽と共にゆっくり近づくスカヨハ。手ごろな石を持って、ウェットの頭をボロックソに叩く。ずっと引き画。泣いてる赤ちゃん完全無視で、ウェットを車に運ぶスカヨハ。ウェットを助手席に置いて走っている。全く下心が無い男も、こうして毒牙にかかった。
 
その夜、テントを片付けているライダー。テントの中に読みさしの本があることから、テント一式はウェットのものである。(ヒントが本しかないので、めちゃめちゃわかりづらい。本は別にアップにする訳でも無い。)
 
テントを背負って、先ほどの修羅場に行くライダー。夫婦は死んだようであり、赤ちゃんだけが暗い浜で泣いている。赤子完全無視でウェットのタオルを拾って証拠隠滅だけして帰るライダー。スカヨハとライダーコンビ、言い訳できないほどサイコパスである。
 
夜道を巡回スカヨハ。男を見つけ、今回はめずらしくトラックを降りる。しかしそこはクラブの前であった。ビッチ集団に腕を捕まれ、仲間扱いされて一緒に店内へ。店内観察するスカヨハ。(なんならここ、ものすごいスピーシーズっぽい)
 
クラブでは逆ナンするまでもなくナンパされる。「お姉さん、ちょっと待ってよ。さっきも声かけようとしたけど居なくなった。とても美人だから奢りたいんだ」「私もあなたを見てたわ」「嘘ばーよん。踊ろうぜ」「一人なの?」「一人じゃ」
 
踊ってたらシーン変わり、そのまま一軒家の真っ黒室内へ。そしてナンパ男は踊りながらタールへ。

タール内ショット。タールの中には先客が。栄養分吸い取られているのか、先客は身体シワシワである。そして効果音と共に、伊藤潤二のマンガみたいな描写で、一気に身体がペーパー状に。

タールは、人の皮膚以外の全ての内容物を吸い取る機能を持っているようであり、そのままベルトコンベアで挽き肉や骨のようなものがスタイリッシュに運ばれていく。
ここでようやく、このライダー・スカヨハコンビは人間の肉を採取、加工している宇宙人なんだとわかる。
 
日中巡回スカヨハ。
渋滞にはまっていると、バラをバラ売りしている路上花屋が窓を叩く。「あの人があなたにと」と、ナイロンに包まれた花を渡される。その花には花屋の血がついている。血を見て異常に引くスカヨハ。特にそれ以上何も無く、箸休め的シーンである。
 
ラジオでは、「海で家族が行方不明」とニュースが流れている。街を歩く着飾った女たちを観察するスカヨハ。
 
また男が助手席に。「キレイな目だね。唇もいいねー。なんというか、すばらしいねー」「そう?」
一軒家の前、帰ろうかどうしようかとビビりながらも、部屋に入る男。ルーティンである。

倉庫に立っているスカヨハ。ライダーがスカヨハをものすごい間近で観察している。片目をじっくり観察し、納得して去る。
 
倉庫を出ると日中街角、いきなりこけるスカヨハ。街中の男は「大丈夫かい」と何人かで起き上がらせる。スコットランドの商店街の人、人、人。(明らかゲリラ。つーか多分倒れたとこもゲリラ。)
 
夜道、車を止めると、ガラス越しに男が何か言っている。聞こえないので窓を開けようとすると、別の男がフロントガラスへ。輩たちが4,5人集まってくる。計画的に悪行しようとしていたのだ。車をユラユラさせる。車は開けられず、輩を振り切って逃げるスカヨハ。ある意味一番怖いシーンである。停車して別の獲物を待つ。
 
49分。前半ラスト。通った男に声をかける。「すみません。道に迷っちゃって」
話しかけた男は、顔面が奇形の病気だった。
 
後半、奇形やその他の新しい男たちと出会っちまったことをきっかけに、スカヨハの気持ちが、、、
という、世の男は不思議で、ヤリモクだけでなくいろいろいる。狂気に満ちたレープ犯も居るし、セックスはおまけとしか考えない紳士も、セックスは眼中に無いピュアな童貞も居る。俺はそのタイプである。宇宙人から見た地球旅行記というか地球人観察記、サントリーBOSSの、宇宙人ジョーンズみたいな話を、あほほどスタイリッシュに、無駄を省いてキレイに大胆に撮ったような映画である。

なんというか、芸能人と友達になって主演に置けば、こんな訳わからん低予算のものでも普通にA級作品として作れるという素晴らしさに気付けた。原作もあり、翻訳されている。表紙を見る限りでは、セクシーでない大人しい感じの女子が、中身は猟奇的な宇宙人だったという設定のようだ。


海外ライトノベルというジャンルで、読もうとしたが、アマゾン・楽天・ジュンク堂にも無い状況だった。

そしてこのブログを、何日もダラダラ書いては中断していたところ、あっけなく先日、日本公開が決まった。邦題は「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」。
なぜ「スピーシーズ 種の起源」に寄せてきたのだろう。この惑星の住人は不思議である。

2014年5月9日金曜日

YouTube「紳竜の研究」NSC講義

島田紳助が本当に嫌いで、世の中の人もほとんどがそうだと思っていたが、地元の友人は普通に、さんまさんより好きだったという。
こちらとしては、全くの他人なのに、この人がテレビから消え去ったときは嫌な上司が辞めた時と同じ爽快感を得ることができた。
これからはもうテレビの向こう側に現れないので、自由に色々なチャンネルを、好きなタイミングでまわすことができるのだ、最後に答えるときにわざわざヘキサゴン!と叫ばなくてもいいのだと、以前よりテレビを好きになれた。

あのしゃくれを忘れかけていた頃、2chまとめの「哲学ニュース」に、ダウンタウンと同級生の放送作家・高須光聖の発言について議論している記事があり、その中でこういうレスがあった。
以上のレスの「紳竜の研究」というビデオ、これが非常に気になり、ちょっと買おうかとも思ったが、安い状態のAmazon価格で五千円、自分は紳助にそんなに払えないし、与沢翼をモデルにしたマンガ・ウシジマくんを読んだばかりで、講義に金を払うのに抵抗があったので、Youtubeで探した。
すると色々なアップ元から色々な題名で、断片的に5,6分ほどの映像がいくつか上がっており、それらをおそらくこういう順番だろうと、試行錯誤しながら繋げると、一時間ほどの映像になった。そしてこれを通して見ると、今まで大嫌いだった靴べらが、とてもすばらしい人物に見えてきてしまった。Youtubeにもあるし、紳助だし、標準語で書き起こそうと思うのだった。
2007年(大阪29期)に行われた講義で、以降NSCから有名人はまだ出てない。

1.5×5

今日は緊張している。NSCで講義をするのは25年ぶりだから。有名な話だが、当時1期生の前で自分と明石家さんまとオール巨人が、それぞれ講義をしたが、その後たまたま3人が会った時に「どうやった?」と聞いたら「1組だけやな」と口を揃えた。それがどういうヤツだったかという事を話さぬとも、全員、それがダウンタウンであることが認識できた。世の中、どんな仕事も才能である。

才能は0~5まで、6段階あると思う。努力も0~5まである。才能5の人間が5の努力をすれば、5×5=25で最高点の結果が出る。みんな、5の努力をしたつもりでも、それは間違った努力なのではないか。

阪神タイガースの掛布とよく話すので、野球の話になるが、プロ野球選手は日に五百回素振りをしている。それ自体は努力とは言えない。全員がしていることだからである。
では「ピッチャーがどういう風に投げた何球目の球を打ち返しているか」ということを想像しているだろうか。想像せずにバットを振っているだけでは、腕が太くなるだけである。ただの筋トレに過ぎない。
努力の段階とは、意識の持ち方である。

2.漫才師の筋肉

若手を見て脅威を感じることはあるかと聞かれることがあるが、さんまも同じで、全く無い。アホかと、何を練習しているのだと思っている。ずっと無駄な筋トレをしている人たちにしか見えない。
日本代表の体操選手と会った事があるが、すごい身体をしている。しかし彼らは、他のスポーツは下手である。体操だけの筋肉がついていて、それ以外の筋肉がついてないから。我々お笑いタレントも、そうでないといけない。
ボクサーは3時間以上練習をするとオーバーワークになってしまう。漫才師もボクサーと同じく、たくさん練習してはいけない。自分なりにネタを繰り返して上手くなったと、気持ちよくなっているかもしれないが、それはただしゃべるセリフに慣れただけである。もっと基礎的な、根本的なところの練習を積まなければならない。

基礎的な笑いの技術とは、音感・リズム感である。歌のオンチと喋るオンチがあり、自分は歌の音程が外れても、どこが外れているのかさえわからない。歌同様、喋りはキーである。喋りの下手な人間は喋りながら音を探してしまうが、才能のある人間は、歌がうまい人間と同じく、初めから音がブレない。
コンビのリズム感の練習は、稽古場でしてはならない。稽古場に合うネタもあるが、リズム感を付けるには歩きながら練習せねばならない。二人で、小さい声でいいので、歩きながらネタのような話をしてみる。ゆっくり歩くとゆっくりしゃべり、早足になると早口になる。歩いているリズムがしゃべるリズムになる。
そうして探りながら、二人の基本ベースのテンポを見つける。4ビートか8ビートか、自分たちのリズムが体に入るまでやり続ける。それが染み付いて初めて次の練習にいける。

3.才能が無いなら辞める

99%の人間が結果に満足できない。才能が無いのに10年も続けてはならない。
ただ、努力を5までせずに辞めたら意味が無い。いい加減な人間は2,3までしか努力できない。努力を5にする方法を覚えた人間は、他の世界でも成功できる。
その自分の理論を立証するために、自分の弟子で、才能は1しか無いが、5の努力ができる野呂祐介に店を持たせた。そして成功した。成功したら二店舗目を出せば儲かるが、そうはせず、新しい企画の別の店を考え、開店している。金でなく証明のためにやっている事なので、出資はするがバックはもらってない。

また、その理論と、「自分はどの分野でも成功できる人間である」ということを自分の中で証明させるために、店を出している。
自分で漫才の教科書を製作して「島田紳助」また「紳助・竜介」を売ったのと、店を売るのは、全く同じノウハウである。
可能なら、もう一度新しい顔と名前で、芸能界で成功することができるか試したい。自分がたまたま売れた訳では無いという事を、自分自身に向けて証明したい。それができないので、店という形にしている。オープンするまでが自分の作品であり、オープン後は一切口を出さない。
この講義を聞いている50人の生徒と一人一人話すことができるならば、ネタの話はしない。どうやって世に出て行くかという作戦を話し合う。それに従えば、2,3組世に出られると思う。

4.相方

自分はコンビを組むのに時間がかかった。仲の良い友達と組むものではない。
何をしたら売れるのか、どうしたら世に出られるのかを考え、「この形の漫才をやれば絶対に売れる」という発想に従い、失礼だが、それに必要な相方を探した。始め先輩と組んだが、合わず、渡米すると嘘をついて逃げた。次に、なんばグランド花月の進行の司会者を相方にしたが、自分の演出の細かさに耐えられず、3週間後に逃げられた。さんまからの「根性あるヤツがおる」という紹介で、松本竜介に出会った。
竜介とは、初舞台が近づくまで漫才の稽古は一切せずに、自作の漫才の教科書で理論の授業をした。「これからは何が売れるのか、自分たちはどう売れるのか。できなくてもいいから、自分が何をしようとしているのかを理解してくれ」と。

まずは自分でも恥ずかしくなるようなベタな漫才から始め、お客さんが見えるようになってきて、次の段階へ行った。
次は会社を説得し、コンビを組んですぐにNHK上方漫才コンテストに出場した。決勝8組に残ったが、自分の中では残って当然だった。先輩も居たが「こんなカス相手に負けるわけ無い」と思っていた。しかし結果は3位であり、頭が真っ白になった。表彰式で花束を投げつけ怒鳴り、そこから30年、大阪NHKから仕事が無い。

5.一番後ろにいる人を笑わせろ

その後、まだ若手で社内での立場は弱いのに、仕事をすっぽかすようになった。会社からすれば、キャラ同様ヤンチャで不良だからすっぽかしていると思っていただろうが、それは違い、勝てない現場だから行かなかったのである。中途半端な出来の漫才しか無く、現場に行けば負けが判明する。引き分けるには現場に行かないべきだと判断した。
また、午前開演の舞台で、客席に居るおばあちゃん相手に演じても、自分たちの漫才をわかる訳がないので無駄だと思い、わざと聞こえない音量で演じたり、すぐに終わらせたりしていた。10日間の出番21回のうち、真剣にやっていたのは3回ほどだ。
いけないことだが、なぜそんな事をしていたかと言うと、ターゲットを20~35歳の男のみに絞っていたからである。自分に一番近い存在を狙うのが、一番簡単だからである。
今は細分化されているが、当時は子供から老人まで笑わせねばならないというのが漫才の定義で、そう教育されていた。そんな中ひとりで、漫才は今後、音楽同様細分化されると読んでいた。

売れ出すと、劇場にキャーキャーと女の子が来るが、これがダメにしていく。彼女たちは人気を作ってくれるのですごく必要であるが、邪魔だ。彼女たちを笑わせるのは楽なので、彼女たちを笑わそうとしてしまう。そうすれば全て終わってしまう。TVでも、目の前のお客さんではなくカメラの奥のコタツで見ているお兄ちゃんを笑わそうとしていた。目の前の彼女たちが笑えば笑うほど、一番後ろにいる人たちからは「お前ら、文化祭で身内だけで集まってやっとけ」と思われるのである。

6.自分ができる笑い、X

自分たちが誰を笑わせるのか、どういう漫才を作るのかが一番初めに必要である。
笑いのパターン、才能、おもしろいと感じるものは、人それぞれ違う。分析をすれば色々な笑いがあることがわかる。

自分がおもしろいと思うものの中でも「自分にはできないもの」と「自分にもできるもの」がある。「自分にはできないもの」は諦める。だからと言って、「自分にもできるもの」の方は、既にその人が居るので、その漫才師には勝てない。なので、自分の才能に近いパターンを、一組の漫才師だけでなく、いくつか探す。自分が普段友達を笑わせているときと同じパターンで笑いをとっている漫才師を、何組か見つける。

自分はB&Bの島田洋七さんをコピーした。周りは気付いてなかったが、本人からは「パクるな」と言われた。しかし「ネタはパクってない。システムをパクっただけです」と返した。
大学を辞めて洋七さんの師匠を調べ、島田一門に入門し、メカニズムを探るために、いつも一緒について歩いた。なぜパクったかというと、怒られるが、絶対に勝てると思ったから。なぜなら二十歳ぐらいの時に、洋七さんの欠点を見抜いた。
B&Bのネタはブームから30年経っても笑いをとっているが、洋七さん本人がおもしろいとは思えない。それが欠点である。本人自身がおもしろい人間と思われないと、キツイ。
絶えずネタがおもしろいと問題ないが、歌手と同じで、いい曲、いいネタに出会えるのは何年かに1回である。
洋七さんは類を見ない才能と、漫才の知識と観察眼があって、今でも尊敬している。漫才を習うならこの人だ。

7.XとY

その「自分にできること」の勉強と、もう一つ勉強せねばならぬことがある。
30年前に漫才ブームがあった。そこから現在までの漫才は、全て記録媒体として残っている。もっと前のものも残っている。それらを全て聞き、どう変わってきたか、何が変わってないかを徹底的に調べるのだ。

Xというのは自分の戦力、自分にどんな笑いができるか。Yは世の中の笑いの流れ。笑いは常に、時代によって変化している。それらを研究して、XとYを理解し、そこで初めて「俺は何をしよう、どうしたら売れるのか、どんな笑いを作ろう」と悩み始めるべきだ。悩んでいる人は、XもYもわからず悩んでいる人ばかりである。
よく「新しい笑いをやりたい、どうすればいいか」と相談を受ける。バカかと思っている。
自分が相談相手に換わって、一年考えれば、答えは出ずとも公式だけは作れる。だが、自分は相談相手ではないので、Xがわからない。
Yは、今は漫才師ではないので、半年ほど時間をくれたら考え出せると思う。笑いが今日までどう変わってきたか、これから5年後、10年後、どう変化していくか。しかしXは、どうしても本人にしかわからない。この公式は自分自身にしか作れない。

「おもしろいことを考えよう、新しいことをやろう」という考えから始めて売れるのは、絶対に無理である。たまたま売れることがあるが、絶対につぶれる。なぜかと言うと、式が無い答え、テストでたまたま書いた数字に丸がついただけの答えなので、そこに何の根拠もないからである。そんなヤツは、Yの動きについていけないので一発屋になる。
XとYが車とすると、一発屋XはたまたまYにガツンと出会い頭で当たった大事故である。大事故はインパクトがある。でも2,3年するとYの動きとはズレる。修正が効かない。
さんまだって、頭の中にこれが入っている。長く売れている人は、世の中に自分を合わせているのだ。だから出会い頭に激突するような大事故にはならないが、接触事故ばかりを起こして売れ続けている。

この公式は絶対的なもの。この生徒の中で、何人が自分のXをわかり、何人がYを正しく分析できるか、全員は無理だと思う。何人かが、XとYを見つけることができるだろう。売れた人間は当たり前のように、これが心の中に入っている。Yを見つけても仲間には言うな。聞かれても「わからない」と嘘をつけ。地元に帰れば友達は居る。ここには友達を作りに来た訳ではない、勝ちに来たのだ。

7.漫才の教科書

漫才に教科書は無いので、18歳でこの世界に入ったとき、まずは教科書を作ろうと思った。教科書が無いのに勉強はできない。
自分がやった方法は、自分がおもしろいと思った漫才、自分の感覚に一番近い漫才を、カセットテープに録音した。そしてものすごく時間はかかるが、それらを全て、タイムコード含め紙に書いた。何度テープを聞いても、紙に書かなければ意味が無い。その紙に書かれた漫才をバラバラにして、分析していく。オチに入ろうとすると急に文字数が少なくなっていたり、紙に書くと違いがよくわかる。

その中で気付いた、名人と人気ある若手との差は、1分間の中の間(ツッコミのセリフとボケのセリフのあいだの無音)の数の違いである。
名人は60秒間に20箇所ほども間がある。10年、20年漫才をしているのだから、間の取り方は上手いに決まっている。我々も1分毎に20回も間を成功させなければならないのか。否、間の数など、見ている人は気にしていない。おもしろいか、おもしろくないかしか見ていないのだ。上手いと思われる必要は無い。下手でいいのである。
B&B、ツービート、紳助・竜介に共通した部分、それは間の数が少ないという事である。自分たちは60秒間に8箇所しか間が無い。そうすれば重要事項である「間の取り方」で失敗する率が少なくなるから、間を減らしたのだ。そしてボケが圧倒的に喋り続けるので、リズムが作りやすい。技術的には下手だが、お客さんはわからない。

また、海原千里・万里さん(千里は上沼恵美子)は高校生時代からスターだったが、なぜ高校生のくせにこんなにもおもしろいのか、やはり客席の一番前でテープを忍ばせ録音し、分析した。
結果、数あるネタの8割はフォークボールを投げており、2割はベタなストレートの漫才だった。彼女たちは、フォークボールをキレよく見せるため、飽きさせないため、ストレートの2割でお客さんの目をくらませていたのだと気付いた。

8.心で記憶する人間

自分は本も読まず、映画も見ない。あんなものは役に立たない。それで得た知識は自己満足でしかない。クイズ番組では役に立つかもしれないが、それだけの得である。
しゃべり手は一般人と覚える場所が違う。脳では無く心で記憶するのだ。今日自分がしゃべったことも強く納得したと思うので、心に残ったと思う。心で記憶したことは、残念ながら一生忘れない。

高校で覚えた授業内容は忘れているが、高校生活の何気ない会話は、なぜか鮮明に覚えている。それは、授業は脳で記憶し、覚えている友人との会話は心で記憶しているからである。
テスト中は「記憶したものはどこだったかな」と、脳の中の引き出しを時間をかけて探し出すが、心の記憶の引き出しは、探す必要が無い。当時と同じ感情になったときに、勝手に引き出しが開くのだ。

「行列のできる法律相談所」でも、何も考えずにスタジオに行っている。
台本を見て「高校時代の腹のたったエピソード」とあったとしても、楽屋では思い出せないので、考えない。スタジオで他の出演者のエピソードを聞くと、年代は違うが、自分も同じ高校時代に感情がタイムスリップできる。すると引き出しが3~5個、バンバンと開きだすのだ。その中から、その時に一番合うエピソードを一つチョイスしてしゃべっている。

「心で記憶できるか」も才能であり、感情の起伏が激しくないとできない。
例えば自分のバーのステージでシンガーのRYOEIが歌うと、お客さんもたまに泣くが、タレントは9割が泣いてしまう。フットボールアワー後藤や小池栄子など、聴いた瞬間に、本人もわからぬまま涙が流れた。
彼らは、物事を心で記憶できる才能がある人たちなのだ。なので、今後RYOEIが有名になってテレビに出たとすれば、彼らは、初めて歌を聴いたときの感想を感情でしゃべることが出来るだろう。すると、脳で覚えてしゃべっている人たちよりも伝わるのだ。
絶えず心で記憶する人間にならねばならない。

9.M-1で勝つネタ

今はタレントになろうとは考えず、M-1の事だけを考えろ。M-1は、ネタ番組や舞台でやる芸とは違う。
例えば自分は、もうテレビ芸しか持ってないので、舞台で漫談をすることはできない。
テレビ芸は、お茶の間の心理を見てしゃべっており、会場のお客さんはどうでもいい。M-1の場合も、審査員だけを意識してネタを作らねばならない。審査員を突破して決勝に行きさえすれば、売れるのだ。
M-1の予選の持ち時間である2分間ぐらい、審査員をごまかせないとダメだ。

短くはっきりしたものを作らねばならない。はっきりしたキャラ付け、パターン、見た目。
最近の若手は衣装を考えておらず、区別できないので、また同じようなヤツが出てきたとマイナスから始まる。自分は年収8万円のテレビに出ていないときでさえ、1年で5着スーツを作った。誰のために作ったかというと、吉本の社員のためである。社員に「またスーツ作ったのか」と言ってもらうためだけの衣装だったのだ。
外へ発信するのは売れてからであり、初めは内側へ向けて発信せねばならない。オリンピック代表になる前の国内予選と同じである。

2分のネタは歌で言うと、サビ前から始めなければならない。ストーリーのあるネタではダメだ。キレイにできたとしても、おもしろくすることはできない。
自分が用いたネタ作りの方法は、まずはお題を考え、そのお題に対して色々なボケを大小15個ほど考える。お笑いと関係ない友人に手伝ってもらってもいい。2分の場合、その15個からチョイスするのは4個でいい。ベスト4を無理矢理流れにすればいいのだ。
1つ目のボケと4つ目のボケが、同じ笑いの量であってはならない。雪だるまのように、笑いはローリングしていかないとならないのだ。
3分間のボクシングの試合で「ラスト30!」と声をかけるのは、ラスト30秒に打った方がジャッジの印象に残るからである。重要なのは審査員の最後の気分である。
4つ目の最後のボケで、わずかな、小さな言葉の面白さを見せること。センスの話になってしまい、今言えと言われても難しいが、ダウンタウン松本が得意とするような、小さな言葉のセンスを最後に見せて、最後に一瞬雪だるまが加速したような形になれば、人はもっと見たいと思うものだ。「さっきのわざとか?」と審査員の印象に残れ。

始めの1分はキャラ付けとして使う。天才じゃないのだから、知らない兄ちゃんが、いきなり出てきていきなり笑いを取ることなどありえない。
おもしろいのはラスト30秒でいい。これが決勝の4分になると、今までの2分+2分で、2分30秒間ずっとおもしろくなる。

これはM-1の審査員に見せる為の漫才である。審査員は何組も見ているので飽きる。1日100組も見ていて、80組目で出てきた漫才師をどう思うかという目線で考えろ。飽きたときに違うタイプの漫才師が出ると、おもしろいと錯覚するものだ。
自分たちより前に登場した漫才師は、ネタフリとして認識し「前のやつらの漫才をどう利用し、いかに2分間で審査員にインパクトを与えられるか」を考えるのだ。

10.10億円

この世界は、売れるとめちゃめちゃ儲かる。金が儲かって、大きい家に住めて、ありえない女を抱ける。賞品はこの3つである。普通の人間がこれらをもらえるのは、この世界しかない。それが頑張れるエネルギーである。
自分も君たち生徒と同じだった。パチンコに行って二千円負けて「なぜパチンコに行ってしまったのか」で半日悩んだ。
夢が叶っていくと、残念ながら夢を失っていく。一対一で飲み屋でこれからの夢を語り合うとすれば、自分は君たちに負ける。それを思うと泣いてしまう(突然泣く)。
10億で売ってくれるなら換わって貰いたい。つまり君たちは10億円分の若さと夢を持っているのだ。だがこのまま50歳になったら何もなくなる。「漫才」は一回目の挑戦である。これでダメだったら全てが終わる訳ではない。でも一回頑張ってみよう。それでダメだったら、違う方法で頑張ろう。まだまだ大丈夫だ。

以上である。
初めに聞いたときはすごいと思ったが、書くときに改めて何度か聞くと、新しい笑いを否定する、物を作ることに対するオリジナリティが全く無いことに、ドン引いた。これ以前から出てきていたジャルジャルとか無視か!女の観客を舐めすぎてるし、途中泣くし、やっぱりこいつ気持ち悪いわ!となった。

そして講義した2007年のM-1の結果を確認したところ、おいらのスーパー父ちゃんオススメの小手先芸とは真逆の、単純な力量だけで無名のサンドウィッチマンが優勝した年だった。

人生を勝ちまくった島田さんは2011年、大好きな元ボクサーの893及びその人に紹介してもらった893との大交友により、泣きながら引退した。
やはり天才的な詐欺師である。心の引き出しがどうこう言ってるときはサイエントロジーを思い出した。思い出すまで危うく洗脳されるところだった。
生活する中でこれから嫌なことがあっても、「お前も紳助が好きだったタイプの人間だろ」と思うことによって差別化をはかり、乗りきっていこうと思う。

そもそもこの人を尊敬している人が、松っちゃん以外、変な人しか見えないことも、ほとんどの芸能人たち(この人の言う、心で記憶できる才能のある人たち)にその薄っぺらさをズェッテーに見抜かれていたからではないか。それって素敵なのではないか。