2014年3月26日水曜日

ジャンゴ 繋がれざる者(2012)

歯医者兼、犯罪者を殺す賞金稼ぎをしているドイツ人、ドクター・シュルツはある黒人奴隷を探していた。ターゲットである悪人三兄弟の顔が確実にわかる、兄弟の元で働いていたジャンゴである。奴隷商人二人組のフリをして三兄弟の働く農場に行ったシュルツとジャンゴは、速攻で彼らを抹殺。二人の賞金稼ぎの旅、及びジャンゴの妻を農場主から連れ戻す旅が始まる。いつの間にかジャンゴは、シュルツの影響で元奴隷とは思えないルパンと次元みたいなキャラになっていく。
ジャンゴのあらすじである。
映画評論家の町山さんが言うに、アメリカの奴隷制度を描いた映画は三本しかないらしい。マンディンゴ(1975)、それでも夜は明ける(2013)、今作である。

映画が、ドラマや本やマンガと違う良いところは、二時間見りゃ終わるというとこにもあると思う。価値のある映画の多くは原作者が何年もかけて考えたことや体験したこと、頭のいい監督・脚本家の全てが二時間に凝縮されている。自分が高校の時に知った世界何番目かに有名な今作の監督、クエンティン・タランティーノはその時点で三本しか撮っておらず、その世界観を把握する、もしくは彼について会話をするにはたった三本見るだけでよかったのだった。その手軽さもファンを増やした理由かと思う。

そして奴隷制度の現場。これに関してもたった三本見るだけで網羅できてしまうというのだ。今作はその中で始めに見た一本だが、面白さよりも落胆が上回ってしまった。それはタラのその衝撃的な三本、レザボア・ドッグス(1992)、パルプ・フィクション(1994)、ジャッキー・ブラウン(1997)、そしてそれに追随するキル・ビル(2003~04)、デス・プルーフ(2007)の、あまたの映画を孕んでスタイリッシュにした個性が強すぎるB級ノリが、ほぼ無くなっていたからである。その傾向はジャンゴの前作、イングロリアス・バスターズ(2009)からで、デス・プルーフのアクの濃さと赤字への反省なのか、おもっきり大衆を意識した映画になってしまったのである。しかしマンディンゴ(1975)を見てから今作を見ると、作品の印象がガラっと変わってしまった。
マンディンゴは、ご存知の通りリンカーンが南北戦争中に開放宣言を出す前、黒人が眼鏡市場でなく奴隷市場で売られ、めちゃくちゃ奴隷にされてた時代にすすんでいく、農場の白人の昼ドラ的映画。そして、それでも夜は明けるはその時代の中で、南部でなく北部に居た自由黒人が、南部にさらわれて奴隷にされてしまう映画である。
マンディンゴがアメリカに封印されたにも関わらず、時代が変わり、それでも夜は明けるはアカデミー作品賞を取った。この二本のアメリカでの受け取られ方の変わりようが、オバマがどうであるなどと語られることがあるが、それ以前に今作は、そんなタブーを軽い感じでウエスタン風復讐劇エンターテイメントにしてしまっていたのである。ただの桃太郎みたいな映画だと思っていたら、猿はヒザに爆弾を抱えながら明るく振舞っていたのである。そんな映画だとは知らずに、「あいつ変わったな」と、新しいレベルに達したタラを見限っていた自分の低学歴ぶりを呪った。作品は生ものではないが見る人は生ものなので、見た時期の私生活や知った事実によって全くおもしろさが変わってしまう。
俺は中卒と思って読んでいただきたいが、奴隷制度と、その作品の舞台になった年を時系列に並べると以下のようになっている。

マンディンゴ 1820年代
それでも夜は明ける 1841年
ジャンゴ 1859年
実際の南北戦争 1861~65年
実際の開放宣言 1862年
南北戦争中が背景にある映画
続・夕日のガンマン(1966・イタリア)
コールドマウンテン(2003)
リンカーン(2012)など。である。

この中で明らかに異色なジャンゴだが、続・夕日のガンマンは近いところがある。そのはず、続・夕日のガンマンはタラの生涯ベスト映画である。
今作は基本的には黒人の観客を喜ばせる企画意図があり、ジャンゴが三兄弟からムチを取り上げて、逆に白人をムチ打ちするシーンは、黒人から歓声が上がったという。その効果を狙うように、ここではエキストラの黒人の顔芸アップを使っている。その辺りの事情をわかってからジャンゴの前作、イングロ~を見ると、やはり同様に印象が変わってしまう。イングロ~は第二次世界大戦中のフランス、ナチスに家族を皆殺しにされた少女は、成長し単館の映画館を経営しているが、そこにナチスの主要メンバーがプロパガンダ映画の上映会のため集まることになり、そこでヤツラを焼き払う計画をたてる。同時に別ルートでナチス殺しをしようとしていた暗殺軍団・イングロリアス・バスターズの暗躍を描く。
この映画もやはり、実際にユダヤ人の観客が多く集まったという。タラが黒人ではないように、タラはユダヤ人ではない。黒人やユダヤ人の友人たちの為に、こういった大きな意味での復讐映画を撮ったという。
そしてタラも個人的に、ドイツが自身の愛する「映画」を政治の宣伝に使っていたことが許せなかったという。
だがしかしこういった奴隷制度映画のヤフーレビューなんかを見てると、「日本でも同様、慰安婦が~」などと、絶対に製作者が意図していないことを書いてる人がいる。映画をプロパガンダに使う奴はシネ!だが、感想の欄にプロパガンダ出す奴もシネ!である。そしてなぜか今作をレンタル開始時独占契約していてステマぶりもパなかったTSUTAYAの戦略もほどほどに!である。
そんなジャンゴのオファーを断ってまでも、人生
で学んだことを映像化しようと監督デビューした俳優が居る。インセプション(2010)や500日のサマー(2009)のジョセフ・ゴードン=レヴィットである。一番鮮度のいい時期で、他にも数々の素晴らしいオファーがあっただろう。それらを断り完成させた「ドン・ジョン」(2013)は、500日のサマーの対として作ったものだろうが、そこには遠く及ばずしこりたくなるだけの糞薄いC級ラブコメになってしまった。彼は、人生をかけて犠牲を無視して哲学をフィルムにひり出しても、価値が無い映画は作れることを思い出させてくれた。

2014年3月14日金曜日

メン・イン・ブラック3(2012)

MIBは1(1997)、2(2002)、3まで全て同じ監督で、過去作にアダムス・ファミリー(1991)を持つバリー・ソネンフェルドという人のようだが、製作総指揮のスティーブン・スピルバーグの力加減が多いように思われる。
ファイナルカット権という言葉が示す通り、ハリウッドの監督は編集も好きにできず、上の人の指示に従って内容や編集を変更せねばならないが、製作総指揮より上は基本居ないため、誰にも邪魔されずに監督業に近いことができるらしく、なのでスピルバーグは、監督よりも製作総指揮の作品が多い、と、嘘が本当かわからんがネットで見たことがある。実際には製作総指揮の仕事はかなりあやふやなようで、現場に張り付き渦の中心に居る場合もあれば、スタッフ試写にだけ来るだけの場合もあるようだ。

このシリーズの素晴らしいところは、やはりエンタメ性の高さである。「陽気な黒人」と「都市伝説」という、B級臭い要素を元ラッパーのジブラ兄さんじゃないわウィル・スミスを得たことにより大成功させた。例えばバック・トゥ・ザ・フューチャー(1985)も同様、公開前はマイナーなB級要素が強いためヒットの見込みがなかったという。現在は親ばかになって息子と娘を売り出すことばかり考えているウィル・スミス。アフターアース(2013)でのKYさとでくの坊ぶりがパないが、このシリーズばかりはウィル・スミス以外の誰が演じても成功しなかったであろう。そしてウィル・スミスもこれが無ければここまで成功しなかったであろう。今作とウィル・スミスの運命的出会いは、小学生当時、ソフトバンク無き時代にほぼ黒人初体験であった我々世代に、黒人かっけーし面白れー、という印象を与えた。大人になって東京に出てきて、黒人が基本こんなに恐ろしいものとは思いもしなかった。ウィル・スミスどころかエディ・マーフィーなども一人もおらず、全員ジャンゴだった。

そもそも、土台になっているのは、「UFOを見た後は、グラサンの黒服が事情を聞きにくる」という、だからどしたんなという都市伝説である。これを再現する貧相なおばさんのシーンもあるが、非常に短い。
バック・トゥ・ザ〜も、生まれた最初のアイデアは「勉強、勉強とうるさい親だけど、高校時代を覗くとテストでカンニングしてた」という糞つまらないもの。カンニングシーンは特典DVDには入っているが、ファイナルカット権によってか、本編では切られている。そしてその二つを切った犯人と思われるのは、製作総指揮のスティーブン・スピルバーグである。更に両作品とも「ママ。あれ見てー空飛ぶ車だよー」「何言ってるのこの子は」といった、アメリカ人以外の感性の人にため息をつかせる、ドヤァシーンが無い。そして恋愛ドラマも無い。特にMIB1のヒロインである非・小保方晴子さん系女検視官は、人生に男を必要としない死体オタクな美人キャラとして異彩を放ちすぎている。更にファッション性である。バック・トゥ・ザ~のマーティの赤いベスト、そしてMIBは喪服。インディペンデンスデイでのウィル・スミスなど、私服はオレンジのニッカポッカである。
この絶妙のさじ加減でSFを作る稀代の天才が製作した近作は、日本で2015年公開されるであろう、クリストファー・ノーラン監督がタイムスリップに挑む本命作、インターステラーである。

MIB1の魅力、それは視聴者が自分の常識と違う、知らない世界にエスコートされる点。宇宙人たちはなぜか創価同士のように、お互いがそうであるとなぜか把握している宗教的な点、更によく苦情が来なかった、宇宙人の動きが身障者にしか見えない点。そんな1に比べ、2がなぜか完全なコメディになってしまい全く面白くない。今作3は、その反省を生かしてか面白くなっていた。1が設定紹介になり2以降が楽しめる作品と違い、「知ること」を楽しむ本作は、どう考えても1を超える作品を作ることは難しい。それでも3は頑張った。
悪党が宇宙人の兵器で過去に戻り、自身を逮捕した主人公の相棒、トミー・リー・ジョーンズ演じるKを殺すと、現代は宇宙人に征服され始める。過去に戻って相棒を守り悪党を殺すため、ウィル・スミスは悪党と同じ方法で60年代にタイムスリップする。飛躍的にスケールがでかくなった世界を、なんとか上手くまとめあげた。単純にジョーンズがアクションができない故だろう、ヤング・Kに抜擢されたジョシュ・ブローリンの憑依演技もすばらしい。
だがラストの辻褄を1に合わせると、1のあの見初めるシークエンスの意味が、、、まぁ面白いから許すが。

他の作品では、ゴーストバスターズ(1984)やその追従であるエボリューション(2001)、陰謀のセオリー(1997)が似ている。
ゴーストバスターズは言わずもがな、面白い奴らがモンスターを殺しまくる点、そしてラスボスが笑かしにかかってんだけどスベってる点である。バスターズは巨大なマシュマロマン、MIBは巨大なゴキブリである。
陰謀のセオリーは都市伝説が本当に起こってしまうという点。統合失調症気味の中年が都市伝説を信じまくっているが、しかしそれが本当で、CIAに追われ始めるというもの。メル・ギブソンの深いシワと天パ具合が派遣とか行ったらいる、45歳くらいのヤバイやつに似過ぎていたせいで、リアルすぎると評価されずに終わった。

そして更に似ている映画がやってきた。ゴースト・エージェント/R.I.P.D.(2013)である。悪徳警官を相棒に持ったが為、純金を横領してしまい、その相棒に殺される主人公。死後の世界に行く途中で取調室のような部屋にすべりこまされ、世界に紛れ込む幽霊退治をするために組織されたR.I.P.D.に所属させられる。死語そっち側で新しい相棒と組むが、その相棒は西部開拓時代に死んだおじさん。それをビッグ・リボウスキ(1998)のジェフ・ブリッジスが、最高なことにあのキャラまんま演じている。
アメリカが本気でスペックを作ったらこうなるような、エンタメの見本を見たようで、正直むちゃくちゃおもしろかったのだが、評価も収入も最悪である。ヤフーレビューを見るとやはりMIBに似過ぎていることが原因のようだ。俺がそれを気にならなかったのは、誰も若者数人が出るホラー映画をスクリーム(1996)のパクリだと言わないように、俺の中でMIBがバディものコメディの定番に、脚本の手本になりすぎているからである。

2014年3月5日水曜日

アカデミー賞結果

アカデミー作品賞は予想通り、そもそも大方の予想を立てていた人の予想がそうであったが、「それでも夜は明ける」になった。
その他、
監督賞は、アルフォンソ・キュアロン(「ゼロ・グラビティ」)
脚本賞は、スパイク・ジョーンズ(「her 世界でひとつの彼女」)
脚色賞は、ジョン・リドリー(「それでも夜は明ける」)
主演男優賞は、マシュー・マコノヒー(「ダラス・バイヤーズクラブ」)
助演男優賞は、ジャレッド・レト(「ダラス・バイヤーズクラブ」)
助演女優賞は、ルピタ・ニョンゴ(「それでも夜は明ける」)
となった。
技術系は作曲も含めてゼロ・グラビティが7部門総なめし、公開後リア充からの推しが強かったウルフ・オブ・ウォールストリートと、最多ノミネートのアメリカン・ハッスルは全くの無冠に終わった。ディカプリオとO監督、おまえらどんだけ嫌われとるんだということである。
ディカプリオが本当に今後一線を退き環境保護に勤しむのか、動向が注目される。
予想のブログを書いた後にダラス・バイヤーズクラブを見た。今作はエイズで一ヵ月後に死ぬと告知された主人公が、無認可の薬で生き延び、更にそれをバイヤーズクラブで会員に売る、という話。死ぬと告知された日数までのテロップを出し、軽いサスペンスのように淡々と見せていく。そのアンチ人間ドラマ的な冷静さと、医者以外底辺の人しか出ないところが売りである。
主演のマシュー・マコノヒーと、助演のジャレッド・レトが受賞した。そして淡々さが売りのはずだが、彼奴等の「いい表情」をけっこう長く映したりしており、結局は人間ドラマじゃねーかと、そこが残念ではあった。このあたりは完全に監督の裁量である。
賞の最初に発表されたのが、ジャレッド・レトの受賞である。主人公とはエイズ感染仲間で、後に仕事仲間にもなるゲイで、ゲイ嫌いの主人公と付かず離れずの友情をみせる。
思い起こされるのが、病気ものではないがヘドウィグ・アンド・アングリーインチ(2001)でゲイを底抜けに明るく演じたジョン・キャメロン・ミッチェルである。ヘドウィグと比べて見てしまい、なぜかムカついてきた。ジャレッド・レトの本業はバンドのボーカルのようであり、つーかお前ゲイじゃねえじゃんという先入観も、ムカつきに拍車をかけたのかもしれない。しかしジャレッド・レト、よー見たらエンジェル・フェイスだったのである。エンジェル・フェイスとは、ファイト・クラブ(1999)でボッコボコにされる金髪のタイラー信者である。
その後パニック・ルーム(2002)では強盗犯のリーダーを演じ、いやあんたデビッド・フィンチャー組かいと、なんだ君かぁと、突然彼は許された。
そして主演のマシュー・マコノヒー、直後に日本の連ドラでぱくられた、ウェディング・プランナー(2001)などでゴリゴリのアイドル路線だったが、10年ほど経ちおっさんになり、突然演技派として復活した。心身健康で業界に身を置いている以上は人生何が起こるかわからん現象である。
そのキャラ作り、これはガリ痩せしたことも注目されたが、何より基本電気工のくせにアウトローで性依存症あるというキャラクターがすばらしかった。変に顔が綺麗なぶん、本当ただのヤリチンおじさんにしか見えない。
性依存症と言えば、それでも夜は明けるの監督の前作、SHAME-シェイム-(2011)である。これも、予想のブログを書いた後に見た。それでも夜は明ける同様、とにかく映像のクオリティが高い。照明を全く当てずに夜道を歩いている映画を初めて見た。それが非常に品よく映っていた。内容は、男前の性依存症が、いろんな人とやりたいが為にあらゆるものを失っていく、でも本命だと勃たないという、コメディでありそうな話をひたすら生真面目にみせていく。長回しで会話もリアルである。見ている人の性依存度にも左右されると思うが、自分は物語が進むにつれ、彼の苦しみにこちらも同調しかなり痛くなった。
これだけやっても大赤字で、ビデオ屋ではエマニエル夫人(1974)などと一緒にエロティックの棚にあった。身を削りまくるスティーヴ・マックイーン監督が、これからどうなるかかなり楽しみである。鬱にだけはならんでほしい。一方本家、俳優の故スティーヴ・マックイーンだが、孫がピラニア3D(2010)に出ていることに気付いた。名前はスティーブン・R・マックイーン。ややこしさが増していく。ピラニア3D、内容はリア充たちが地割れから発生したピラニアにボッコボコのグッチャグチャにされる、ホステル(2005)の流れからの拷問系大人数ホラーである。なぜかバック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ(1985~)からドクとジェニファーが出演している。リア充に死んでほしい人には持って来いの映画。連続でピラニア3Dの続編、ピラニアリターンズ(2012)も見たが、こちらの糞映画っぷりは果てしない。久々に全力で失敗してる映画を見た。人がナイロン製のヒモにたまたま首がひっかかって死んだり、その飛んでいった首は血まみれの巨乳にパイズリされたりする。しかも撮影時から3Dで撮られている。本人たちは成功すると思って撮っているのである。一応ドクはまだ出ている。なんならマシュー・マコノヒー並に、いきいきと演技していた。